Get Set
水無瀬早生様




 陽射しはいつものように様々なものを孕んでいた。うつくしさを有し、全ての生命を称 えるのみならず、くすんで疲れた澱みを見せつつ。それでも輝いて辺りを照らした。映し 出す影が一つ、在った。『それ』はゆっくりと歩を進め,やっと見つけたと呟いた。


 時間と言うかくもうつろいやすいものに翻弄されて、人はゆるりと再生する。その内に ありとあらゆる記憶を留め続けられたとしても、やがて現象は、そして思いは徐々に輪郭 をぼやけさせてゆく。鮮明なままでは残りはしない、筈だった。


 今日もクゼキの横にトナツは座り込んでいた。何をするというわけでもなく、ただクゼ キの作業をじっと見つめながら。彼女の瞳は殆ど見えてはいなかったが、僅かに掴める形 と声や台詞の補完で、彼女にはクゼキがきちんと判別できるらしかった。倒れてきそうな 廃ビルの前で、彼女はもくもくとクゼキを見つめ続け、やがて不意に視線を逸らすと、空 を見た。陽射しが当たるのを感じた。
「――ねえ」
 その死角を縫って誰かが話し掛ける。振り向いて、誰だ、と問うたクゼキをまるきり無 視して、その人物はトナツをまっすぐに見つめた。
「空は、何色に見える?」
 それが彼、トオカの意味有る第一声だった。


 トオカは綺麗な顔をしていた。その奥は見透かせなかったけれど、綺麗な顔だった。霞 んだような色素の持ち主で、全てが不可思議だった。謎めいた台詞を繰り返し、一つとし て確かなところは無く、掴み所が無く。別段人懐こいわけでもないのに、まるで細い道を 通り抜けるように、するりとこの場所に入り込んだ。何故かクゼキは至極あっさりとこの 異分子を受け入れ、トオカは安定した生活を手に入れた。おおよそ生活感の無い部屋に、 彼は銀色に光るカップを置いた。毒を孕んでいるかもしれない綺麗な水がいつもそこに満 たされていた。


「――トナツ」
 彼は、日がな一日、何をすると言うわけでもなく座り込んでいるトナツの隣りに鎮座し た。観客が一人増えたな、とクゼキはこぼしつつもそれ以上の文句は口にせずに、黙々と 作業に没頭した。画家がこの街を去ってから、いや、正しくはニタニが死んでから、彼の 中に沈んだ科学者としての魂がそっと浮かび上がってきたようだった。あちこちで土くれ を拾っては、謎めいた色の薬品と反応させて、その結果をノートに書き付ける。びっしり と記された化学記号はクゼキ本人以外には誰も解読できなかった。
トオカはそれをじっと見つめる。壁にもたれて腕を組んで。興味のある風でもなかった。 トナツの見るものを見ている――ただそんな感じがした。
「――世界はどんな風に見えるの?」
見えない瞳を抱える彼女にこんな質問を不躾にもぶつけるのは、彼以外にはいなかった。
「道があるわ」
――海に続いてる。海は青いの。どこまでも、どこまでも。
思い出は美化されて。思い出は風化して。胸に思い描く風景は、絶対的なものではなくっ て、いつも揺らいでいる。
「僕の海も、青い」
その青さは完全で、誰にも侵すことが出来ない。細波が心を揺らしては、救いを求める。 迷いの中で。


君が好きだ。言い出せなかった。でも君が好きだ。その名前を呼ぶ時は、いつも心が震え た。僕の中に沈む秘密を、引きずり出して君は消えた。――要らない。
瞳を閉じて、自分自身を抱き締めて。消えそうになってしまう。刻まれた罪科は残りつづ けるのに。僕自身が。……だから、僕は、僕を信じるしかないのだ。


切に希う時。その内には何が秘められているのだろうか。世界はいつも疑問だらけで、何 処にも求める答えなんてありはしない。ただ、こう呟くだけだ。自分で答えを見つけなさ い、と。とんでもなく突き放されては、本当は一人で立ちたいくせに、傷つくなんて虫の よすぎる神経を抱えて、今を、生きる。
ふと持ち上げた鈍い銀色のカップは、その存在の証のように重さを手のひらに残した。汲 まれた水は綺麗に見えた。――見えるだけ。
 何やってるんだ、と、背中から声が降り注ぐ。それに我に返ると、トオカはまず笑みを 作ってからやおら振り向いた。
「クゼキ」
何をしているかだって。
僕は、僕を確かめようとしていたんだ。


理解の範疇を超えた人間を締め出すことは容易く安住の地を手に入れることである。そし てそれはひどく醜い行いでもある。――さて、ここで、どちらがより真理に近いのか?
「……」
そんな妙な問い掛けが心に浮かび上がってきた。科学者らしくない発想法だ、と、クゼキ は苦笑しながら顕微鏡を覗く。汚染物質を迅速に分解する手掛かりを求めながら。
若干哲学がかった物思いは、とりもなおさずトオカの影響であるに違いなかった。彼を掴 みきれずに自分の枠組から排除しようとするきらいを見せた人間は少なくない。けれどそ れでも、自分の醜さとかは別にして、クゼキには彼を拒みきることができなかった。
――どこかで気に掛かっていた、と言えばいいのだろうか。それとも気に入っていた、か。
ここは見つけられない街。誰にも何も見つけられない。そんな街で、もしかしたらトオカ は何かを探しつづけ、見つけるのかもしれない。そんな予感が背中を走ったせいだった、 簡単に彼を招き入れたのは。拒否と受容では、受容の方が難しいに決まってる。でも予感 は捨てられなかった。捨てるには惜しかった。だから敢えて難しい方を、選んだ。
(だけどあの色は……)
抜け落ちている色素は、自然でありながら『自然』ではない。
この世に神はいないのに。

 名前なんて意味は無い。
 名前なんて意味は無い。
 名前なんて意味は無い。
 言葉ってどんな風に強くなれるの。
 人間という存在は一体何なのか。
 そして、このひとは、何のつもりで私の隣にいるのだろうか。
「……」
 今日も飽きもせずにトオカはトナツの隣に立つ。それが何の意味を持つのかトナツには 理解できなかった。
この街を去っていった、「自分を置いて」この街を去っていったあの画家は、それでも彼 女にある種の安らぎを与えてくれた。でも、彼はそうではなかった。与えると言うよりは。
与え損ねて、逆に与えられるのをじっと待っているような。どこまでが真実で何処までが 夢の中なのかすら分からないような、恐ろしく不可思議な人だった。
 時折気紛れに彼は何かを呟く。その言葉はいつも取り止めが無く概念的で、そしてそれ 故にはっきりと言ってしまえば不躾な部類に入る台詞だった。しかし彼はそれを極めて普 通に尋ねてきており、彼の中ではそれらの質問は普通で繋がりあるものであるようだった。
普通の普遍性を揺るがすように、生きる人間であった。


 ある日、誰かが誤って彼の家のテーブルにぶつかり、カップを落としてしまったことが あった。カップは割れはしなかったけれど、中の水は床に撒き散らされた。沈黙の中で緊 張感が漲った。水の入ったカップをテーブルに置くことは、何かの祈りのように人々には 映っていたから。けれど黙ったままのトオカは緩慢な動作でそれを拾うと、ただ一言、
「――世界はこれで正しいんだ」
曖昧な言葉を発しただけだった。重力の存在なのか、形あるものは限りあるという物質不 変の法則なのか、零れた水は元には戻らないと言う諺なのか、それとも他に深い意味が込 められているのか、何の気なしに呟いただけなのか――正しい意図は誰にも分からなかっ た。
そして彼は何故かトナツを捉えていつものように曖昧な呟きをもらす。
「――君は、僕の中に、どんな醜さとどんな充足感を見出すの?」
「それを聞いてどうするの」
さらりと尋ね返したトナツに、トオカは、これまた間隔を空けずに
「僕がどんな風に君を見ているのかを確かめるんだ」
と、良く分からない答えを囁いた。主語は転倒し、目的はすりかわり。誰かがとどのつま り、とまとめようとしてもそこで足が止まってしまう。
 掴めそうでその実そばに行けば唯の偽物である、蜃気楼を思い出させた。分かり合えて いるのかいないのか分からなかった。蜃気楼は全てを知っていても、そこに迷う旅人は蜃 気楼のことを何も知らない。彼はゆっくりとこの辺りの事情を飲み込みつつあったけれど、自分達は彼について何の情報も得られていなかった。


 昔その部屋を使っていた絵描きが居た。彼は見た目が与える印象そのままに繊細な生き 物で、芸術家肌の人間で、スケッチブックを様々な絵で埋めていった。
最初の出会いは寝ていた自分を起こすところから始まった。今度の謎めいた人間は、この 身体の上に痛さを秘めた質問を降り注がせた。もしトオカにスケッチブックを渡したなら ば、とりあえず受け取りはするものの、きっとそれは一ページも開かれずに埃にまみれる のだろう。無関心さを世渡りの為に隠さない人だから。そもそも何かに執着しているのか どうかも怪しい。そんなところは違う。普通とも違う。けれども、もっともっと、深いと ころで。
(わたしはそんな風に)
見ている。

「……同じ」
あの絵描きと。そして、
同じだわ、ともう一度声に出したら。思いがけず断固とした反対が得られた。
「違う」
 刹那伏せられたトオカの瞳は、すぐに真っ直ぐとトナツを見つめた。その視線を何故か 感じることが出来て、ふっと目を逸らし、
「――違わない」
首を振ってトナツは呟く。
「あなたもあのひとと一緒。そしてこの海と一緒」
簡単にその青さを喪い、簡単にわたしを置いてゆく。
「違うよ」
違うよ、僕は違う……そんな声がその瞳から流れ出すようだった。唇がゆっくりと言葉を 空気に刻んだ。
「僕は僕だ」
――。
トナツは一瞬沈黙して見せて、それからふと言葉をこぼした。
(それじゃあ、わたしは)
「それじゃあ、わたしは何?」
この名前は仮初のもので。この『場所』も仮初のもので。わたしはトナツじゃない。
あの日トナツと呼ぶ声に、わたしは命を与えられた。ぐいと腕を掴まれて、業火の中を逃 げ切った。それまでわたしは死を待つ唯の生き物だった。それからわたしはトナツになっ た。――失われた青を、一体誰が取り戻すと言うのだろうか。塗りつぶされた過去を、今 更剥ぎ取って、再び太陽の光の下に晒す日は来るのだろうか。とてつもなく不安定な場所 に、支えを手放しつつ、恐ろしく安定した振りをして危なげなバランスを保っている今。 その問いに彼は答えなかった。そこにどんな真意が有ったのか、トナツには読み取ること が出来なかった。答えの代わりに彼はこう囁いた。
「……欲しいものは、有る?」
君の望みは何。転がすように言葉が跳ねる。柔らかく、そして限りなく優しく。見えない 瞳でも確かに、降り注ぐ光は感じ取れる。
トナツは、海が見たいの、と呟いた。
「青い海が見たい。――そうね、あそこに絵が一枚有るでしょう、あの海をわたしに見せ て」
遠い昔の物語の。敢えて無理難題を言いつけ、纏わりつく者達を振り切ろうとする姫君の ように。だが姫君と違ってトナツのそれは、まごうかたなき真実だった。最早この目は治 らず、海は戻らない。それでも願いは唯一つだった。欲しいものはそれだけだった。
(ニタニ)
湧きあがる名前に、瞬間、えも言われぬ感傷が襲い来る。心は麻痺していない。飽和して いたわけでもない。ただ、少しだけ、傷つくのを怖れて必死になっていただけ。
「僕は僕だ」
先刻の答えを彼が唐突に繰り返した。トナツはその濁った瞳を上げた。
「そして君は君だ。そこには僕の知らない過去とか真の姿だとか、そんなものは関係ない んだよ。今僕の目の前に君がいる。その存在を疑ってしまったら、僕は君を見る僕自身さ え信じられなくなってしまう。でも僕は僕としてここにいる。僕は僕を信じてる。だから、君も君として僕の前にいる」
緩やかにループしたどことなく哲学的な台詞を吐きながら、彼は優しく微笑む。自分自身 に言い聞かせているようでもあった。それからそっと証拠のようにトナツの肩に触れた。 『トナツ!』
こっちだ、と引き寄せる手。
たった一枚の絵とその人生を引き換えた男。
そして、するりとすり抜けて行った或る絵描き。
「――見せてあげるよ」
今、現実に響く言葉。
見せてあげる。海を。青く輝く海を。記憶の底に眠る海を。思い出の中で美化される海を。
次第に風化していく海を。それらのどれでもあって、どれでもない本物の海を。そうした かったから、するんだ。
どこで、いつそう思ったのかなんて聞かないで欲しい。時間は動き続けているものだし、 僕らだって生き続けている。生きるのを止める瞬間は、即ち死に直結する。止まることは 出来ない。
そうして、肩に掛かっていた手は、ゆっくりと移動してトナツの両の指をしっかりと掴ん だ。
広がる。青の世界が。
柔らかに、音を無くして、代わりに波の音が耳に響き。確かにそれは海だった。魚の生き る、海だった。身体の奥底から痺れるように湧き上がるのは涙ともつかない代物だった。
海。
まごうことなきその青さよ。喪われし大いなる存在よ。再び現世で出会えるとは思っても みなかった。
海。


――その沈黙が破られたのは、唐突な呼びかけによってだった。
「トオカ」
 背中で驚いたような声がした。聞き覚えの有るその声に、トオカはゆっくり振り返った。
(ああ)
 思った通りの人物がそこにはいた。一人の女性だった。こんなところでも白衣を着込ん で科学者然とした態度を崩さない彼女は、ふと眉根を寄せた。
「やっと見つけた……。――帰りましょう、早く」
「嫌だ」
 首を振ってすぐさま拒否する。それに不愉快そうな顔を見せると、彼女はぐいとトオカ の腕を掴んだ。
「トオカ」
 トナツがそう呟く。
「帰りましょう。貴方の力が必要なの。だから帰りましょう。こんなところにいても何も 無いのよ。貴方にはすることがあるの。もう分かってる筈でしょ」
「嫌だ」
 台詞を遮るようにトオカは言った。けれどもその効果は一瞬で消えた。次の瞬間、彼女 は、
「トナツはいないのよ」
と言い放った。
(――え?)
 伸ばそうとしていたトナツの腕が不意に動きを止めた。それはトオカの服を握りしめる 代わりに空を掴んだ。
「……」
 トオカはため息をついて抗うのを止めた。分かったから、ちょっと待ってて。そう言っ て彼女に背を向ける。そして何も言わずにトナツの腕をぐいと掴むと、そのまま歩き出し た。倒れてきそうな廃ビルの前まで。


「――僕は、『トナツ』が好きだった」
 その名前に、何時もとは違う想いを込めて。彼が言っているのは、本当のニタニの妹の ことに相違なかった。
「あの日、僕は、ほんの偶然でこの街にいなかった」
 試験を受けに海の向こうに行っていて。あのことは、狂ったように報道されるニュース 画面で知った。未だ現実感の無いまま、急いで街に帰った。――嘘じゃなかった。船の上 でそう思い知った。海は見たことも無いような色で荒れ狂い、次々と魚がもがき苦しみ死 んでいった。船長は途中で引き返してしまい、彼は強引に譲り受けた救命船で街に向かっ た。マフラーが知らない間にどこかへ消えてしまっていた。
 たどり着いた街は、かつてのそれとは比べ物にならないくらい変貌を遂げていた。
 ここは、どこだ。
 そう、思った。
 ここは、どこだ。この街はどこだ。そして自分の居場所はどこだ。
(僕は『トナツ』が好きだった)
 ――トナツ。
 彼女を必死の思いで探した。
 何日が過ぎたのかも分からず、眠ったのか眠っていないのかもはっきりしないまま、ト オカは探しつづけた。間断無く続く頭痛におかしくなってしまいそうだった。瓦礫を何度 も踏み外して、何かに躓いたかと思えばそれはかつて人であった代物で。必死さに麻痺し ていた神経でも、意識を遠のかせるには十分すぎるものだった。
 やがて、その耳は、聞き覚えの有る声を捉える。
『大丈夫か』
 そう、誰かに心配そうに問い掛ける声。
(ニタニ)
 彼がいるのならば。『彼女』もいる筈で。慌てて振り返って、ニタニを視界に収める。 傍には一人の少女がいた。――彼女ではなかった。
「ニ、」
 トオカがニタニに呼びかけようとした時。少女がニタニの問い掛けに頷いて答え、それ を満足げに、そして愛おしげに見つめて。ニタニが。
「『トナツ』」
と呟いた。
(誰)
違う。彼女は違う。僕の知ってる『彼女』じゃない。あれは誰。あれは、誰――。


 そう、僕達は一度会ったことがあった。僕は声もかけられないまま、黙って立ち去って しまったけれど。


「――僕は『彼女』が好きだった。だから声をかけられなかった。そしてニタニが許せな かった……」
 君を。違う名前で呼んで。『彼女』のことは忘れたように。否、例え「振り」でも許せ なかった。
 『彼女』が好きだったんだ。だから死んで欲しくなかった。生きていて欲しかった。そ う信じ続けていた。誰も代わりになれなかった。『彼女』は『彼女』でしかなかった。別 の誰かを同じ名前で呼んで、『彼女』の場所に呼び寄せ、『彼女』にしてあげたいことを するだなんて、考えられなかったんだ。
「――もし、『彼女』が見つからなかったならば、その時は一緒に『彼女』のことを考え たかった。でもそれも叶わなかった。ニタニは僕の知ってるニタニじゃなかった……」
 さっき見せた海は。君の心に眠る本物で。それでも何があっても、僕は、嘘はつかない。
 この『力』はあの日から生まれて。『彼女』が僕の中から引きずり出した。
(『トナツ』)
 『彼女』がいないと知ってから。しばらく瓦礫の中を彷徨って、あっという間に居場所 が何処なのか分からなくなった。知らない間に海に着く。そこには、ぐしゃぐしゃに火傷 を負った一人の老婆がいた。襤褸切れを身に纏い、言葉にならない言葉を呟き、苦しさに 喘いでいた。もう恐怖感は呼び起こされなかった。代わりに不思議な気持ちがした。トオ カは一歩、また一歩、と、老婆に近づくと、手を差し伸べた。その汚い指に触れた瞬間。
 波の音が甦った。目の前の茫々とした海ではなく、鴎が飛んで、砂を洗う海の持つ波の 音が。続いて映像が一気に立ち上がる。それは知らない景色だった。
 老婆はその瞳から僅かに涙を零した。そしてああ、と吐息をついて死んでいった。彼に 残されたのは嫌な頭痛だった。


 それからは気紛れに人を選んではその指先に触れた。意識を集中させれば直ぐにできる ようになった。
海を、召喚せよ。
五度目くらいではね返るのは頭痛だけじゃないと知った。かきあげた髪とかきあげる指が、ほんの少し色を失い始めていた。
恐怖感がそっと現実になる。それに反して噂はあっという間に広まり、人々が自分の前に 群れを作った。海を見たい。安らぎたいんだ。そう口々に呟きながら。
――僕は、どうしたら、安らげるのだろうか。
それでも頭が痛い間は『彼女』のことを忘れていられたから、何人もの人の指を握った。


あの女が部下を伴って僕の前に現れたのは、それから間もなくだった。その時にはもう色 は大分抜け落ちていた。昔の写真のトオカは、黒い髪で黒い瞳の筈だった。今は薄茶色の 髪で向こうが透けそうな程薄い黒の瞳。
『――貴方が必要なの』
 痺れる言葉。
『私たちと一緒に来てくれるわね? 約束するわ、貴方の悪いようにはしない。貴方の力 が私たちには必要なの』
 麻痺する耳。
 言葉をちゃんと耳に入れていたのかは定かではないけれど、疲れた僕は楽そうな道を選 んでしまった。当ての無い作業にはもう疲れきっていた。
この海を綺麗にする方法なんて、本当は見つかっていない。あるにはあるけれど、それに は時間がかかり過ぎる。だから、彼らは自分を必要とした。その場しのぎに人を癒せるよ うに。このメカニズムを解明すれば、少なくとも対応の遅さへの不満を抑えられる筈だっ た。そして翻って、自分達もまた刹那的な安らぎを求めていたのかもしれなかった。


政府が買い上げるはずの絵を、街の男に奪われたというニュースはこの研究所にも伝わっ てきた。癒し事業の一環で、真っ青な海を描いた絵だった。奪った男は死んだけれど、絵 は戻らなかった。
『――ニタニ』
唐突にその名が耳に飛び込んできたのはほんの偶然だった。その時トオカは疲れた身体を ベッドに横たわらせていた。今日も海を出現させては、身体中にはりついた電極がその全 てを記録しようとしたものの、解析不能なままに終わる、といういつものパターンを繰り 返していた結果だった。動けないくらいに頭痛がして、やがて昨日とは違う肖像画が出来 上がった。
(ニタニ?)
意識の端がその言葉を捉える。あの絵を、カタログで見せられたあの絵を奪って行ったの はニタニだったのか……。
そして。
『死んだ』
それなら。
『トナツ』は。
簡単に連想が生まれる。彼女は、彼女はどうやって生きているのだろうか。『トナツ』の 場所を奪ってトナツになった彼女は、きちんとニタニの死を悲しんでいるのだろうか。そ れとも無関心に通り過ぎる他人の死なのだろうか。――答えがどちらであっても、自分は 満足しない気がした。でも、確かめたい。そう思った。この目で。
密かに脱出の決意を固めていると、そっと扉が開かれた。ここの人間とはもう会話をした くなかったので目を閉じたら、寝ているのかと勘違いされたらしく、入ってきた人間は自 分の指を掴んだ。そして海を見せて、と悲愴な囁きを漏らした。その声があの女科学者だ と気付くのにそう時間は要らなかった。彼女はもう一度、呟く。海を見せて、と。
――一気に決意を実行に移す参段が整った。


そうして。やっと見つけた彼女は。
『ねえ、空は何色に見える?』
 向けられた瞳は光を失って鈍くくすんでいた。綺麗な空の色、青も赤も紫も黒もオレン ジもあるから、やっぱり空は『空の色』、という答えに僕は満足した。入り込んだコミュ ニティからあらん限りの情報を引き出した。ニタニとトナツのことを全て。彼らはまごう かたなき兄妹だった。しっかりと寄り添って、互いを支えて。実の妹ではないとニタニの 口から聞かされた人間もいた。確かに似てないといえば似てない兄妹だったけれど、そん な風には見えなかったとその男は付け足した。どっちでも腹が立つはずだったのに、僕は とても満足だった。


「――トナツ」
 不意にトオカがそう呼びかける。彼女は緩やかに顔を上げた。
「君は君だ。好きとか嫌いとか正しいとか間違ってるとかは別にして、僕は僕を信じてる。僕は嘘はつかない。――だから、君に言ったことも全て本当だ」
 信じて欲しい。
 そう囁いて、彼は唐突に瞳を閉じた。伏せられた睫毛が一段と色を失っていた。崩れた バランスでトオカはトナツにもたれかかる。
「トオカ……」
 ごめん、と呟いて、トオカはしばらくトナツに掴まり続けていた。


『トオカ』
 呼ばれる。でも、その声が誰のものなのかすら分からない。
(ああ)
 結局僕は。ニタニと同じようになってしまうのか……?
『いいや』
 次に聞こえたのは、自分の声だった。
 違う。僕は、違う。
 僕はトナツが好きだった。そして、トナツが好きなんだ。どっちも、嘘じゃない。嘘じ ゃない。愛すべき真実を。この指先から導かれる鮮やかな『海』の青を。君が君である証 を。抜け落ちていく色と引き換えて、手に入れた。
「――まさかあのクゼキがこんな所にいるだなんてね」
 じわじわと表層に近づいて、そう言う彼女の声が聞こえた。
「――どこで何をしようと俺の自由だろう」
 さらりと答えてクゼキはそれ以上の議論を避けようとした。だが、彼女は放そうとせず に言葉を紡いだ。
「ええそうね、他人の私には何の関係も無いことだわ。既に伝説になってしまった科学者 になんてなんの興味も無いもの。……だけど、私の邪魔をしないで頂戴。彼は私が見つけ たの。トオカは私のものなの」
「僕は僕のものだ」
 それまで押し黙ったまま俯いていたトオカがようやく口を開いた。ほんの少し頭痛から 回復したようだった。
「――トオカ」
 呼ばれて、そっちを振り向く。これはトナツの声――。
(トナツ)
 それをぶち壊すように彼女が言葉を割り込ませた。
「トオカ、勝手な真似はしないでって言ってるでしょう。それは貴重なんだから、そんな 使い方をしたら……!」
「――したら?」
 ついと瞳を向けてトオカはそう問うた。そんな使い方をしたら、そのメカニズムを解明 する前に死んでしまうわ。……彼女が飲み込んだのはこんな台詞であるに違いなかった。
 つまり。
 仕組みが分かれば僕はお払い箱で。それまでは身を粉にして政府に尽くせ、と。僕の自 由はどこにあるのだろう。
 そしてそんなことを言いながら彼女は自分に、海を見せてと、縋りついて懇願した。大 いなるパラドックスは、こうやって生まれいづる。
「――もう、やめよう」
 ぽつりとトオカが言った。
「貴方科学者なんでしょう、だったらこんなその場しのぎの政策に精を出していないで、 もっと早く海を甦らせる方法を考えたらどうなの」
 多分もうすぐ。僕自身かこの力のどちらかに。『限界』が訪れる。
「もう研究所で何度も何度もやってみせたけど、全然分かってないじゃない。僕の力はど ういうメカニズムなのかなんて、全然、欠片ほども解明できてないじゃないか。――さっ き、自分でも言ったでしょう、『そんな使い方をしたら死んでしまうわ』って。……もう 嫌なんだ、もうやめたいんだ……」
 微かに掠れた声で、トオカは言った。手のひらはしっかりとトナツを捕らえていた。
「駄目よ、それは駄目。貴方は私が見つけたの。貴方は私のものなの。そして私達の財産 なの。勝手な真似は許さないわ。一緒に研究所に戻ってもらう」
 頑として彼女はそう言い放った。けれどもそこにほんの少しの罪悪感とひるみがあった のをトオカは見逃さなかった。
「――それじゃあ」
 素早くトナツの耳にあの場所で待ってて、と囁くと、トオカはベッドから完全に起き上 がった。とん、と床に立ち、彼女の両手を取る。
「貴方、いつか僕に言っていたよね、海を見せてくれって。――寝てると思ってたでしょ う。でも聞いてたんだ……聞こえてた」
「――!」
 ざわざわと心が騒ぐ気がした。瞬間、何かに飲み込まれて、鮮やかな映像が辺り一面に 立ち上がった。


青、青、青。空間を満たすのは、全て、青。
そっと波が打ち寄せる。生きている――。
『海』
 ああ。
 愛している。この景色を。


 呆然と立ち尽くす彼女の手のひらを不意に離すと、トオカはそのまま振り返りもせずに 走り出した。こびりつく頭痛は懸命に投げ捨てながら。満足げに、そして寂しげに見送っ たクゼキの顔は見ることができなかった。


 倒れてきそうなビルの前。日の光は優しく辺りを包み込む。そこに佇む少女が一人。そ の耳に、唐突に乱れた足音が届いた。荒い呼吸音が聞こえて、立ち止まった後も肩で必死 に息をしながら、その手が腕を掴んだ。――いや、腕につかまった。
「――僕は」
 僕は、違う。
 僕は、嘘はつかない。
「一緒に逃げよう」
「――誰と?」
 トナツがそう問い掛ける。それにトオカは笑みを見せると、
「君と」
と答えた。
 そういえばまだ名前を聞いてなかった。本当の過去も聞いてなかった。――ほら、こん な風に呼び名とか過去とかで人の存在を危うくすることなんてできはしない――。



 それで、君の名前は、何て言うの?






水無瀬早生様がくださいました。
自分がなんか書いたものに、二次創作を書いていただくのは初めてで、とても感激しました。
しかし、上手い。すんごく、上手い。
素敵なお話を沢山書かれる方です。水無瀬様のサイトは、ご存知かもしれませんが、リンクさせて戴いてます。
もう、本当に素敵です。
水無瀬さまありがとう。





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