境界に種を蒔く。
暗い世界を逆さまに歩く魔人の背中が見えた。
その向こうに逆さまに聳えるあれは、塔か、山の頂か。
『逆さまなのは貴様だ、ヤコよ』
足元には何も無い。ただ深く暗いだけの。
落ちる!そう思ってしがみつく、手。
黒皮の手袋のひやりとぬめる感触はいつから差し伸べられたのだかわからない。
『暴れるな、持ちにくい』
逆さまなのは我輩ではない、貴様だ。ネウロはもう一度繰り返した。魔人の足元もやはり何もなく、何もないところを何も見ずに歩く魔人の手だけが、やや曲げられて私の頭を鷲掴みにする。私は手足の力を抜いてみた。落ちない。じわりと沁みる安心感は、多分間違っているのだけれど。
ここは魔界なのだろうか、もしかして。
『違うぞ、ここは単なる狭間に過ぎん。魔界になど貴様が行ってみろ、一秒と持たずに餌だ。豆腐より儚いな』
狭間なんかになんでいるの。
疑問を口に出そうとして喉がつかえた。何かが口の奥に溜まっている。そういえばまるで声も出ない。吐き出したいけれど、ああ、息も詰まる。
『貴様には恐れるものが多すぎるな。理解しがたい。そもそも間違っている。何故貴様は魔人を恐れずに同じひとを恐れる? 己と同じ矮小なるたかがひとだぞ?』
だってネウロは知ってる魔人だから。知らない魔人は怖いかもしれないけど、ネウロは知ってるもの。
『貴様が我輩の何を知っていると?』
ひとがひとを、貶め傷つけ殺め時に喰らう。
ひととは不思議なものだな、ヤコよ。
なんという変化と可能性の塊。
あの狂わされたものたちが貴様と同じひとであるというなら、貴様に眠る願望とは如何なるものなのだろうな。
恐れることなどあるまい、おなじひとなのだから。
逆さまに落ちて(昇って)いこうとするヤコをネウロは自分と同じ向きに引き摺り下ろした。やはりそこにも足場は無く、確かな位置に立てぬヤコは混乱する世界と同じ顔で喉を押さえてこちらを見た。
謎を食うようにヤコの喉から引きずり出した言葉は、怖い怖いと一面に響き渡り、ついでに引き出されたらしい涙を見苦しく溢れさせながら、ヤコは恐れるべき魔人の腕に縋ってわかんないよと呟いた。
ひとの私にわかんないひとの怖さを、どうして魔人のあんたに解らせられるっていうの。
我輩がひとごときを恐れるわけがなかろう。
うん、知ってるよ。それは解るの。
だからネウロは怖くないし、でも私は怖かったの。
『先ほどの疑問に答えてやろうか。狭間は狭間だ。目を開けてしまえば何も変わりも終わりもしていない。ここには時などないからな。貴様が恐れるひとと悪意は今だ目の前に待ち構えているぞ』
怖いと響き渡る叫びの中でヤコは無理に笑おうとした。
でもちゃんとあんたもいるんでしょう?
ああ。貴様だけ戻してなんになる?
なんにもならないよね、と頷く。
わたしネウロのこと知ってるよ。ネウロには怖いものなんて何にもないんでしょう。ううん飢えるのは怖いのかもしれないけど、ひとなんかまるで恐れてないんでしょう。
だからネウロは、大丈夫なの。
おなじひとだと思うと余計に怖いのだと言ったら、貴様如きを我輩が恐れるわけがなかろう、だから貴様は豆腐だというのだ、と、思っていたのと一言一句同じ答えが返った。
その言葉が今はわたしを保つ。支える腕に縋る。わたしの恐れる変化と可能性を一言に踏み潰した、恐るべき魔人の立ち位置の上で。
『早く泣き止め。このままでは我輩飢えるばかりだ』
縋った腕を振り回したりせずに、うんざりとこちらを見ている気配に、少しおかしくなり笑う。反響する叫びは段々に遠ざかる。怖さが、遠ざかる。
稀な優しさを発揮した魔人は、どうやらわたしの心が読めるらしい。
さて行くか、との呟きに、周りを取り巻く闇が流れ渦を巻いた。
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