夢返し




 扉を支える巨大な髑髏の、空の眼窩に芒と灯る火は赤かった。
 青白い燐光ではなかった。だのにそれは肺を焦がすような熱気ではなくて。
 熱も持たず視界を侵食する冷気を伴っていた。血の焦げる生臭いどす黒い臭いと。
 扉は少しだけ開いていた。胸の悪くなる臭いはその隙間から漂ってくるのだ。あの長い爪から。牙から。
 幾重にも巻かれた鎖を千切ろうと荒れ狂う気配がある。後退ろうとした踵は大地を踏まなかった。振り返った遥か下に澱んだ淵が見えた。
 崖の下から呪詛の声。扉の向こうで荒れ狂う力はその長い爪を伸ばして、足元の地面を虚しく掻いた。
 背中に浴びせ掛けられる呪詛が悲鳴に変わった。
 振り返れば渦を巻いた黒い水面に、浮き上がってくる大きな恐ろしく大きな手のひら。
 金属の軋む音が一瞬途絶え、そして轟と嵐に似た力に全身を押し潰されそうになる。
 地獄の門が開く。



「一護! 一護! こら眼を覚まさんか!」
 ばちんっと景気のよい音をさせたのが自分の頬で、何故だか眼が酷く痛むのは、眼前でもう一度殴ろうと構えなおされた平手の、小さな爪の先が瞼を擦ったからだろうかとぼんやり考えた。
「・・・・・・ルキア」
「呆けるな!」
 布団の上から押さえつけるように馬乗りになって、真剣そのものの顔をしたルキアが居た。
「・・・・・・あ? 夢・・・・・・」
「恐かったのだな。よしよし、もう大丈夫だ」
 何時も自分が遊子や夏梨にやるように、頭をわしゃくしゃに撫ぜられた。
「冷汗でびしょ濡れだ。泣かずにいたのは流石男の子」
「・・・・・・子供扱いすんな」
 起き上がって、まだ髪やら額やらを叩いたり撫ぜたりする暖かで小さな手を、退かそうと掴んで後悔した。
 震えているのは自分の手だ。
「無理もない。文字通り地獄を見たのだからな」
 そう言えばやけにリアルな夢だった。否、夢と知って眺める普通の夢とは違って、確かに夢の中の自分は地獄の門に立っていた。
 昼間、闘争心に半ば以上麻痺していた恐怖心が、やっと平静に戻った隙を突いて溢れかえったのか。
「滅多に見るものでもないが、あれを見ると悪事など働くものじゃないと思うぞ」
 私ですら思うのだからな、お前が憑かれても無理はない。
「・・・・・・俺はあそこでなんか悪ぃもんでも拾ってきたのか?」
 そうじゃないとルキアは首を振った。
「魂が恐怖に憑かれたと言っておるのだ。一護、夢で何を見た?」
「・・・・・・鬼に喰われそんなった。いや、あれは」
 虚だったかな。
「夢の地獄は本物より恐ろしかったろう?」
 夢は魂が見るもの。生身の生きているお前が思うより、魂は恐ろしい思いをしたということだ。
「地獄の門は見たものの魂から恐怖心を引き摺り出す。丑三つ時は最も人の魂が無防備になる」
 人は痛みの記憶だけで傷つくことが出来る。身体と魂がどれほど単純に連なっているか、もう知っているだろう?
「それはお前が思い描いたただ幻だ。しかし叩き起こさねば、夢の地獄に飲まれかねんからな」
 眼を傷つけたか? すまぬ。少々焦った故。痛むのか? 一護、大丈夫か?
 普段はあきれるほど落ち着き払ったルキアが、珍しく当惑した様子でかまってくるのを、例え子供扱いされてもわずらわしいとは思えなかった。
 寧ろ安心感を覚えた。掴んだままの手の震えが収まってくると、逆にその手首の細さと自分の握力に思い至り、慌てて手を放した。
「気にするな。どうということもない」
 薄い手首には爪の食い込んだ痕が出来てしまっていたが、ルキアは怒りもしなかった。
「お前は悪人ではなかろう? 地獄はお前の前には絶対に開かん。大丈夫だ」
 この私が、お前を地獄になどやるものか。
 断固とした甘さの欠片もない口調で宣言されて、まともにその顔が見れずに手のひらで目を覆う。深く息を吐いた。
「どうした? やはり痛いのか?」
 手を剥がして眼を覗き込もうとするのを、無理矢理抱え込む。こら甘えるな、とルキアがあきれたような声を出すのも無視して。
「そんなに恐かったのか。すまぬな。もう大丈夫だぞ、一護」
 ルキアは暴れもせずに背中に手を回し、ぽんぽんと二回叩いた。
 その髪に顔を埋めているうちにいつしか眠くなって、それでも手放す気になれず夜明け前まで浅い眠りを漂った。
 束の間の安らいだ眠りを楽しんだ。






2001.10.31?


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