5.世界など知らなくていい



 無事に帰った父である侯爵は母を責めはしなかった。家政を破綻に追いやりかけたとしても、それが稀なる愛による過ちであることを知っていたからだった。家の立て直しを図り、他の有力貴族との交際も復活した。娘で、年頃である私は、再びあらゆる催しや茶会に呼ばれるようになり、私はドレスの数の許す限りそれを受けた……この半年間新調できなかったせいで何着も着られなくなったのだ。成長期なのは嬉しい。今は特にそう思う。もっと大人になりたいから。
 私が好きでもない茶会に積極的だったことには理由がある。
 爵位の頂点は公爵。次に侯爵。王家はこの場合除外してもかまわない。シィエン・ベルモンドの父の家としては、適する年齢の人間がいない。修道院への寄進などから正体が判るのではないかと思っていたけれど、誰もそれを教えてはくれなかった。あのロランですら、仄めかしもしなかった。理由は解っているし問い詰めるつもりも無い。存在が知られればあの人の命はない。
 ヒントはひとつだけあった。ロランは「青年」という言葉を使ったのだ。二十数年前の若者は生きていれば現家長だろう。恐らく彼は母親似だろうけれど、面影の欠片も無いのなら、庶子など認めないで捨て置けばいい。閉じ込めて生かす面倒など必要ないのだから。肖像画のひとつひとつにあの人の面影を探る。あのひとが閉じ込められるのは、いわゆる一族の恥だとか、一族ごとの異端視だとか、そういう権力の持つ諸刃の剣。自分の出自が貴族であることを、あのひとの前では引け目に感じたとしても、それは結果的にあのひとの力になる。私があのひとの世界を広げたい、私と同じ世界に来てほしいと願うから。相手がもし公爵家なら難しいけれど、侯爵家か、それ以下ならば或いは。

 すこしふっくらとしてきたようだねと、頬に触れた父は言った。母の隣で過ごす午後、手のひらほどの端切れは着れなくなったドレスから切り取った。リボンとレースも。私はそれに小さな小さなバラの蕾を刺繍していた。
 無事に帰った父は迎えに出てすぐ泣き出してしまった私を、こんなにやつれてかわいそうにと抱きしめた。そのときに比べればずっとましになったと思う。
 刺繍は貴族の女性の嗜みで、私は正直なところ得意ではなかったのだけれど、この小さなサシェひとつを作るためだけなら、苦手でも無理する価値はあると思う。
 ラベンダーのポプリを詰めるのだ。浅い眠りのあの人のために。

   無理をすることは無いんだよと父は続ける。あんなに面倒がっていた茶会にすすんで行くのはどうしてだい? 嫌っていたはずの刺繍を随分熱心に刺しているのだね。急に図書室の本を読むようにもなった。時折ごく質素なドレスで出かけると聞いたのだけれど、もしおまえがいやでなければ教えておくれ。

 茶会に行くのは戦うべき相手を見定めに。あのひとの世界を私と隔てるものを見定めに。
 刺繍はひと針ごとがこの想い。あの人がいうならさしずめ呪い。良い夢を見ますように。夢で逢えますように。
 本を読んで世界を知って、どこへでも行ける身の私が何も知らないことに気付いたから。本を読めるのは二人とも同じなのだもの。世界を広げて。いつか置いていかれず付いていけるように。この本当は広い世界を知るために。
 お忍びはあの人に逢うために。

 お父様、実は私、恋をしているのです。
 それは近衛隊の誰かかね。
 いいえ、違います。

   家の為に私はきっと花婿を迎えることになるのでしょう。けれど私、あの方以外のどなたも愛しいとは思えません。近衛隊はあの方へのたった一筋のつながり。美しく聡明で頼りになる、私を助けてくださった方です。本来でしたら近衛隊どころか宮廷の華となり得る方です。けれど障害があるのです。あの方を手に入れるためには、あの方に私を近づけまいとする全てを取り除かなければなりません。そのためなら枢機卿だろうが教会だろうが、私は私の持てうる力を全て賭けて戦いましょう。
 世界など知らなくていいと嘯くあの人を、世界から手を伸べ迎えたいのです。

 これはないしょの恋なのですわ。

 セリーヌは小さく笑い、またひと針思いを通す。
 まるで大人のような顔をする、と父である侯爵はふと切なくなる。
 知らなくていい。世界の何事も。世の穢れを知らぬ花であれ。ただやわらかく咲けばいい。
 そんな消極的な祈りは障害にすらならない。なぜなら彼の娘は恋に夢中なのだ。

 恋をしてしまうと、世界はもう広がりゆくばかりなのです。




2007年10月6日
ベルモンドは初期設定だけでも十分魅力的なのですが、現在話が広がりすぎてどうしような展開ですね……三銃士ファンとしても難しいところです。シィエンの実家は本誌では明らかになっていますが、これを書き始めたのは9月上旬なのでそのあたりお許しを。セリーヌ嬢はとてもかわいらしい人だと思う。



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