また雪が降り始めていた




夕方近くなって、天からは真白な雪が降り始めた。


 町に人影はなく、家々から漏れる暖かそうな灯に、寒さがより強く感じられるような夜だった。
 入るときには酷く軋んだ古い木戸は、内側から押してみると驚くほど速やかに開いた。外は相変わらずちらちらと降る雪で、路面の土の色も見えない。
「気をつけて行きんさいよ」
 店じまい寸前の迷惑な客だというのに、見るからにどっしりたっぷりとした店のおばちゃんは、おすそ分けだよ、とそれなり高価そうな一瓶を包んでくれた。コックに頼まれた樽二つと、持ちようのないそれを、他に仕方がないから腹巻に挟んで、ゾロは酒屋を出た。
「こんな祝いの夜にはそれがなきゃ始まらんよ・・・・・・特に若いもんが集まるんならね。あんた海賊だね。老若男女、お偉いさんもただの船乗りも親子も恋人も勿論海賊も、この日は誰もが安らかでありますように。そういう祝いの夜だよ」
 そうか俺は海賊に見えるのか、と、妙なところにうっかり感動してしまう。
「祝い? それにしちゃ町じゅう静か過ぎるな」
 おや、あんた知らないのかい。と、福々しくおばちゃんは笑って見せた。何故か落ち着く、どこか懐かしげな笑みだった。
「安らぎと憩いと静けさと。そういう祝い方もあるんだよ。賑やかにぱぁっと騒いじまった後で妙に寂しくなるような、寂しかったことをうっかり思い出しちまうような、そういう時に一番欲しくなるもの・・・分かっちゃいるけど確かめたいものってあんだろう?」
 もっともあんたみたいな若いもんには、まだまだ分からん境地かねえ?
 気安く笑いながら、馴れ馴れしくも頭を軽く撫でられた。子供扱いされて腹が立たぬでもないが、僅かに猫背な自分に背伸びしてやっと届くような、そんな感覚が苦笑に変わる。
「気をつけて行きんさいよ」


 ゴーイングメリー号は港の一番隅に停泊していた。桟橋に樽の片方を降ろし梯子を上る。
 上りきったところにひとまず置いて、もう一つを取りに引返す・・・・・・そこで初めて、船首向きの階段にうずくまる影にゾロは気付いた。
「おい、何してる?」
 抱え込むようにした膝に顔を伏せて。寒空の下冷たい雪に降られて。ナミは一人で座っていた。泣いているのかと、とっさに思ったのはさっき聞いた台詞の名残だ。
 寂しかった頃をうっかり思い出しちまうような、静かで寒い夜。
「風邪ひいても知らねえぞ」
「・・・・・・あんただって人のこと言えた義理じゃないでしょ」
 いつもどおりの冷めた言い草に、安心すべきなのだろうか? 突っかかるべきなのだろうか? いずれにせよナミは決して泣いてなどいなかった。するりと立ち上がって、肩に、髪に、積もった雪を払い落とし、こちらにやってくる。ゾロは残りの一樽を取りに梯子を降りた。
 担ぎなおして梯子を上りきると、驚いたことにまだナミがそこにいた。先に担ぎ上げた方の樽に浅く腰掛けて、例の高価そうな一瓶を雪に透かして眺めていた。
「発泡のロゼか。サンジ君らしい注文だわね」
「あ? 違えよ」
 雪の夜の祝い酒だってさ。安らぎと憩いと、そういうもんのためにだと。
 ふぅんと気の無いような返事を返して、ナミは酒瓶を掲げたまま、ゾロの背後、町並みの灯りの漏れるほうを眺めた。
「雪に透かせた灯りってのは、光が四方に滲んで見えるから、すっごくきれいよ。それで、これも一緒に透かすと、世界は全く薔薇色に見える。そこにないみたいに滲んであやふやになって」
 綺麗で、静か過ぎて、暖かそうで、手が届かなくて、泣きだしそうだ。
 こんなに雪が降って寒い夜には。
「酒に酔って薔薇色の世界? それまでに一体何樽空ければ済むんだろな?」
 しかし混ぜ返した話にも乗らずに、遠い町の灯を眺めるナミの眼が、一瞬歪み、滲んだように見えて、ゾロは首を振った。そうやってみればやはりそれは目の錯覚で、全て降り続く雪が彼の感覚を邪魔しているのだった。
「・・・・・・泣いてるみたいに見えるから、やめろ。・・・・・・そんでさっさとそこ退いて中入ってろ。お前ごと担ぐわけにゃ流石にいかねえからな」
「あら、私は軽いわよ?」
 今度はまたいつもどおりの口調で、ナミは肩を竦めて見せた。しかし一緒に担ぎ上げられるのは嫌だったらしい。しぶしぶといった様子で樽から滑り降りる。例の瓶をしっかりと抱えたまま。
「これ多分美味しいけど、あんたには弱すぎるわ。私が貰っちゃおうかと思うんだけど、どう?」
「コックに渡さなくてもいいのかよ。一応食料のうちだろ」
「予定外要素だもの。あんたが言わなきゃばれないし」
 両手に樽を担いでは、食料庫の扉を空けられないことにいまさら気付く。渋面のゾロの横から手が伸びる。開けてあげたわ感謝してね、と言わんばかりの笑顔に、どうしようもねえとため息をつく。
「・・・・・・分かった。分かったが雪見酒は止めろ? 風邪だって俺はひかねえがお前は多分ひく。それに寒夜の女の一人酒ってのもどうもいただけねえし」
「お相伴なら許すって?」
「まあな」
「あんたと飲んだら一瞬でなくなっちゃうじゃない……」
 定位置に樽を据えて外に出る。見上げると雪はまだまだ降ってくる。
「あとな、雪見て泣いても、コックには悟らせんなよ。後がうるせえし手がつけらんねえ」
「独りで買出しに行かされたかわいそうな誰かさんを、待っててあげたのよ親切な私は」
 泣いてなんかいないわ。雪で滲んでそう見える? 言いながら笑った。
「そういうことにしとくか」
「あんたがなかなか戻ってこないから大分凍えちゃったわ」
「そりゃ悪かったな」
 ダイニングへの階段の手摺にすら雪は積もっていた。足元悪いぞ気ぃ付けろと差し出した手に、あたりまえのように掴まったその手は、痛そうなほど冷たく凍えていた。
 一人涙堪えた時間の長さを思って、その手を握り返し階段の上まで引き寄せた。
 自分の立つ隣に。


 安らぎと憩いって酒屋のおばさんが言ったって?
 ああ。賑やかに楽しむのも悪くはねえと思うんだがな。最近は。
 確かに一人酒じゃ憩いにはならないしね。
 おいお前さり気なく二杯目注ぐな。
 いいじゃない。ほら、乾杯。
 何に。
 何にしようかしらねえ。
 ・・・・・・。

「雪、あとどのくらい降る?」
「はっきりはわからない。雪は慣れてないから……でも、そうね、明日の朝には降り止むんじゃないかしら?」
「明日の朝にはすべて元通り、か」
 性質の悪いまやかしめいた感覚の全てが。
「慣れてないと柄にもないことしちゃうものなのよ」
 硝子瓶に淡く透かした安らかな灯に照らされて、それはそこにはないのだと錯覚してしまう。
 今はあるはずの全ても。
「こっちも調子狂っちまうから、あんまりありがたくねえんだがな」
 音もなくひたすら振りつづけるだけの、日に照らされればすぐに溶けて消えてしまうような、そんな寂しげなものは、早く溶けて消えてしまえばいい。
 滲んだ世界とともに悲しい寂しいもの全て消えてしまえ。
「・・・・・・ま、こういう日は飲んで寝るに限るな。お前もさっさと休め。一人で起きててもろくなことねえからな」
「そう、ね。身体も暖まったし。お酒も空だし」
 席を立って扉に手をかけたところで、もう一度振り返った。
「ところで、何の祝いなのか未だに分からねえんだが」
 これは本当だった。
「冬の夜の定番行事よ。安らぎと憩いと祈り。幸せと大切なものと願いと、そういう祝祭があるのよ。ほとんど意味や実効性はないと思うんだけど」
 へぇ、と今度はゾロが気のない返事をする番だった。そういう役割なのだと知っているから、気付かぬふりで背を向けた。
「でも、それもわるくないかもしれないわ」
 行儀悪く肘をついて、空のグラスを眺めつつナミが呟いた。ような気がした。


「おやすみ・・・・・・」






一晩中雪は降り続いていた。


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