悲しみと憎しみと喜びと愛と
何れが私を生かすのか
「その濡れた尾を清かなる白浜に」
いいえ白浜などではありませぬ
これは波に打たれ枯れた誰かの骨





シレネの魔女の歌





 何か囁きめいた言葉を聴いたように思う。夢の中で、俺は小船に揺られ、青い空と青い海とが酷く暗い、昔のあの苦しい孤島を思い出すような風景の中で、誰かに問い掛けていたのだ。
 海面を響かす風の音にも似た、ささやかな歌声に誘われて波が勝手に船を寄せる白い岸。
 他愛もない空想と、恐らくは昨夜なんとなしに聞いた物語のせいだ。
 岸辺の人魚は初めの頃のふと見かけた寂しげな笑みで、俺をそっと海に押し返した。



 男部屋のやかましい鼾歯軋りの中で俺は眼を覚ました。一昨日だかにぶち抜いた跳ね上げ扉の修理跡から漏れる、星だか月だかの弱い光に眼がなれた頃には、今見ていた筈の夢の粗筋はうやむやになってしまっていた。
 覚えているのはナミさんが出てきて、可憐に綺麗だったってことくらいか。
 隣のハンモックでウソップがうつ伏せに寝ている。曲がった鼻から笛のような奇妙な音が鳴っていて、そう言えば妙な歌を聞いた気がしたのはこれが原因だろうか? ルフィの鼾に顔を顰め、枕の下から引っ張り出した潰れた煙草の箱。皺になったシャツを羽織ってそいつをポケットに突っ込んで、気がついた。ゾロがいない。なんだかな。反対側の薄い壁を、女部屋を隔てる壁を思わず見つめて、人の気配もねえしと頭を振る。
 その時聞こえてきた小さな、ごく小さな言葉の切れ端。
 外でナミさんが歌っている。


 跳ね上げ戸をそうっと開けて、思った以上の明るさに思わずひるむ。
 薄い陰をつけて、頭上に聳えるマストの向こうに欠けた月が出ていた。
 ナミさんは船首近くの手摺に持たれて、遠くの海を眺めてた。短い髪が夜風になびいて、ああ綺麗だと息をつく。ナミさんが振り返った。
「起こしちゃった?」
「驚かないんですね?」
「気配とかには敏感な方なのよ」
 一人半分、離れて隣に立って同じ方を眺めてみる。月の道がそこには出来ていた。揺らぐ波の上を遠くの月灯りが渡って、空との境目がわからないくらい遠くまで続く光の道。
「何か歌ってました?」
「うん。ちょっとだけね」
「夢ん中までとどきましたよ。誘われてついふらふらと、ね」
「昼間のウソップの話、覚えてる?」
「ああ、霧の海の人食い人魚? 歌に惹かれて飛んでる鳥まで落ちるっていう」
「酷い話よね」
「全くです」
 ナミさんが真剣に言うので大真面目に返してみた。そしたら彼女は笑った。
「あれ色んな話があるのよ。砂糖がけのメレンゲみたいなラブストーリーとか、同じメレンゲでも悲恋物とか」
「泡になっちまうっていうやつなら、俺も知ってる」
「王子様の甲斐性なしって思わなかった?」
「思いましたとも。俺だったらあんな薄情なことはできません」
「全部に共通してるのが、歌声が綺麗だってとこなのよ」
「ナミさんの歌声も俺の心に響きましたよ?」
「あらそう? 私は人魚じゃないわよ?」
「ナミさんにだったら食べられちゃってもいい」
「どうせ食べるならサンジ君よりかサンジ君の料理の方がいいわ」
「ははは。とりあえず喜んどきますよ」
 ナミさんが一端口を閉じてしまったので、俺はそれ以上喋る気にもなれなくて、仕方ないから茶でも入れるかと台所に向かう。夜風に吹かれてナミさんが冷え切ってしまう前に、熱いお茶でも飲まして部屋に戻すために。
 寝不足は美容にも宜しくないし。


   食堂のドアはやや軋んで開いた。潮風で蝶番が錆てしまうまえに、明日油でもさしとこうと考える。普段は勢いに任せて吹っ飛ばすので気付かない軋みだ。
 ポケットのライターを取り出して、テーブルの真ん中に置いてあるランプを探る。丸窓からの光は外に慣れてしまうとあまりに朧で、俺は一瞬反応が送れた。
 酷い重圧感と、何より目の前に突きつけられた切っ先の鋭さに不覚にも冷汗が出る。
「灯りはつけるな。大声も出すな」
 見張りにでも出たかと思っていたゾロが、部屋の隅に蹲っていた。言葉が発せられるのと同時に重圧感は幾分か減って、俺は冷汗を誤魔化すように、ポケットから煙草を一本引っ張り出して、火をつけた。
 ライターの炎に一瞬照らされて、渋面のゾロが刀をおさめるのが見えた。
「……こんな真夜中にどういうつもりだ? クソ剣士が」
「酒が飲みたかっただけだ」
 俺はシンクに向かい、やかんを取って火にかけた。ゾロが不満げな顔を顔をしたが、
「俺が台所に入って、灯もつかなきゃ不自然だろうが」
 そう言われてみれば確かにそうだ、とゾロは無言で引き下がる。足を投げ出して座り込んだ、その隣には空き瓶が一つ。
「お前こそ慣れねえ嘘なんかついてまで、なにやってんだ?」
 室内にはアルコール臭の欠片も感じられなかった。
「だから酒を」
「要するに言いたくねえってか。お前の浅い考えなんざ言われなくても分かるぜ? ナミさんに知られたくねえんだろ」
「……油断のならぬ奴がいるんでな」
「御安心を。たとえ人食い人魚が団体様で襲ってきたって、ナミさんは俺が守ってみせるとも」
「そうだな。お前が食われてる間にあいつなら逃げられる」
「クソムカツク野郎だなてめえは。よし決めた。てめえの茶は入れてやらん」
「簡単な復讐でありがとよ」
 ゾロはそのまま刀を抱いて、無視を決め込む。俺はなんとはなしに話し掛けてしまう自分が嫌だがそれ以上に嫌な感じの無視っぷりが気に食わなくて、わざと話し掛けることにする。
「人魚の話だが」
 反応はない。
「てめえが知ってるのはどんな話だ?」
 無視。
「やっぱり人食い人魚か?」
 深々とした溜息が返った。よし。嫌がっている。
「……人魚の肉を食うと不老不死になるっておとぎ話なら」
「へえ。不死なんざ恐いしいらねえけど不老はいいな。若さってのはある意味非常に必要不可欠だからなー。色々と」
「てめえはさっさと枯れちまえ」
「そうだなー。俺のみずみずしさに比べたらてめえなんか干物だもんな、干物」
 無言。どうやら怒っているらしい。しかし最早無視も出来ず、ペースを乱されて困っているらしい。わはは、ざまを見ろ。
 と思ったら、何事か白状するようなそぶりで、とつとつと喋り始めた。
「……昼間の」
「ん?」
「ウソップの人魚の話」
「ああ、シレネの魔女。歌で獲物呼び寄せて食っちまうの、恐いよな」
 それは岩場に座っていて、始めた遠くから歌声だけを海に流す。そしてその音色に惹き寄せられた獲物を食ってしまう。そしてまた次の獲物を求める。海藻のような濡れ濡れした長い髪と、豊かな胸をさらした、サカナの尾をもつ妖女。
「まあ女にはどっかしら似たようなところがあるもんだ。女はだれでも魔女。食われちまう俺は愚かな男。でも俺は愚かでいいのさ」
「魔女と呼ばれた女は、俺は一人しか知らねえ」
「……まあ、てめえの人生むさくるしそうだしな」
「てめえは本当に本物の愚か者か? わかんねえのか?」
 外からまた、ナミさんの歌声。時々途切れ途切れに口ずさむ歌はあんなに明るい月明りの夜に、酷く物悲しげだ。
「……だってナミさんは、魔女でもなんでもねえだろ」
 ゾロはなんとも答えない。
「泡にもならねえし、人も食わねえし、食われちまってもいいくらいだけど俺は食われるよりか食っちまいたいし」
 でもそんな悲しそうな様子には見えなかったのに、なんでてめえがそこまで深読みしてそれがしかも当たってるなんてことがあるもんか?
 ナミさんは人魚じゃない。


 歌声に引き寄せられた獲物を優しく騙して食ってしまって。足元には骨。また次の獲物を待つ。誰か。誰か。満たしてください。助けてください。
 私はこんなにも飢え怖れているのです。
 私はずっと待ち望んでいるのです。


 くつくつと柔らかな音を立ててやかんが鳴る。
 二人分のカップを用意して、茶を入れ、部屋を出るに当たって慈悲深く告げてやる。
「お前がここで柄にもなく心配の余り素面で見守ってたなんてことは」
 殺気が倍増。
「言わないでおいてやるから、感謝しろや」
 わざとらしいほど丁寧に閉めた扉の向うで、怒りのあまり口も聞けないゾロに、これで引き分けだと呟いた。


「お茶を入れてきましたよ」
 これ飲んで、もう一眠りしたらどうですか。どうせ明日も喧しくて忙しい日になるから。
 ありがと、とナミさんは笑みを見せる。
「確かに随分冷えてきたわ。月があんなに動いてるし、このカップ明日洗ったんでもいい?」
「勿論」
「だけど今から眠れるかしらね。頭きっちり冴えちゃってるんだけど」
「添い寝でもします?」
「要らない」
「あら残念」
 サンジは肩を竦めて見せる。ナミはカップの中身を一口啜って満足げな溜息をついた。
「ねえナミさん今どんな気分?」
「わりといい気分。ねえこれお茶っていうより殆どホットワインよ?」
「よく眠れそうでしょ」
「まあね」
「それ飲んでさっさと寝ちまってください。それに一人で真夜中にあんな悲しげな歌なんか歌うもんじゃないですよ。気になって俺が眠れない」
「別に大丈夫よ? 本当に。今はもう一人ってわけでもないし」
「それって……」
 あの野郎のことですかもしかして。
 なんですか気付いてたんですか。俺出る幕じゃなかったかもですか。
 寧ろ邪魔……いやいやいや。
「おやすみなさいナミさん。さもないと俺が食っちまいますよ?」
「おやすみなさいサンジ君。食えるものなら食ってごらん?」
 ナミさんは実にナミさんらしく素敵につれない。
 カップ片手にひらひらと手を振って、彼女が女部屋に戻るのを見送って、さて壁を隔てて別の夢でも見ようかと考える。
 どうせならナミさんが言うところの、砂糖がけメレンゲみたいな夢がいい。それとも夢もみずにぐっすり朝まで? それが一番いいかもしれない。
 おやすみなさい、ナミさん
 願わくば、いい夢を。





船乗りは安心して眠りなさい。
シレネの魔女はいなくなった。
歌声ももう聞こえない。



20020701

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