リハビリ【 夏 】




 ココヤシ村から移植したナミのみかんは、グランドラインという苛酷な環境の中でも頑丈に茂っていた。
 むしろ節操なく花が咲き実が実り、季節感も何もないといった状況で、ナミは密かに疲れやしないかと心配している。
 船長は時折みかん畑に突っ伏してその匂いにひたった。
 コックは次から次へと熟れていく果実をどう使おうかと意欲を燃やす。
 王女はそれを幸せそうに食べる。
 医者が剥いた皮の効用を教えたので、狙撃手は俄か漢方に目覚め甲板にざるを広げる。
 そして剣豪は、柔らかな天然羽毛に埋もれて惰眠をむさぼる。
 小さなみかん畑は大海原に浮かんだ船の、ただひとつの陸地の名残なのだった。


 そんなみかん畑がささやかな騒動をもたらしたのは、突き抜けるように晴れた凪の朝だった。



 夜明け。料理中は煙草は吸わない主義のサンジは、ジジジ・・・・・・という聞き慣れた音にその特徴的な眉を顰めた。
 思わず咥えただけの煙草を手に持ち替えてみる。火はついていない。
 熱い灰が水に落ちた時の、あの音を思い出したのだ。だが違う。
「誰だ火ィ使ってるやつ!!」
 ダイニングのドアを開けて怒鳴ると、甲板で鍛錬中の剣豪が怒鳴り返した。
「そりゃお前だろう!」
 至極もっともな答えである。
「誰か水に火ィ落さなかったか?」
 当たり前だが剣豪は首を横に振った。
「砲弾でも飛んで来たんだろ」
 どっからだよ、とコックは手摺に寄りかかったまま空を仰いだ。
 天晴れ、見事なほどに空は青く、そよとも風は吹かず。そうしてまた、ジジジジ・・・・・・と例の音が聞こえた。
「また聞こえたぞ」
「何がだよ」
「じりじり焦げたみてえな音が聞こえねえか?」
 ダンベル(バーベル?)を下ろしてゾロは首にかけていた手拭で汗を拭う。なんてオヤジっぽいんだと半ば感心しているサンジに、真顔で問い返した。
「お前、料理の火ィ消してきたか? 」
 脱兎の如く台所に駆け込むサンジをやれやれと見送って、ゾロは首の骨をバキリバキリと慣らし、不意に聞こえ始めた懐かしい音に顔をほころばせた。
 音は始めは控えめに、やがて恥じらいを捨て華々しく、さらに過激に、一帯の海に響き渡る。
 ダイニングから転げ出てきたサンジが絶望的な顔で負けじと喚いた。
「なんだってんだよこりゃあ!!!?」
 その後聞き苦しい台詞をなにやら叫んでいたようだが、音に掻き消されて、野生動物並みのゾロの耳にすら聞こえなかった。
 ミーンミンミンミンミン、と。人が口で説明し様もない独特のうねりと波長。
 懐かしい夏の声。
「蝉だな」
「みんみんぜみだ! どこだ!!?」
 男部屋から争うようにルフィとウソップが乗り出してきて、梯子を踏み外して下に落ちてぐええと潰れた。


 物心ついた頃には船に乗っていた。
 港町に下りることは在っても、殆ど海の上で暮らしてきた。
 バラティエからゴーイングメリー号へ。陸地に上がろうとか上がりたいとか、悲惨な思いも随分した割には、あまり思わない。
 しかしながら陸には恐ろしい生き物が居たものだ。あんな轟音聞いたこともない。
 どんな化け物かと思ってみたら、ゾロが掴まえた虫はたかだか彼の親指にも満たないようなやつだった。
 みかんの木にへばりついていたそれは、ジジジと羽音を立てて飛び立ち、後部マストにへばりついた。
 マストに隠れて見守っていたチョッパーは、ひゃあと飛び上がり逃げる。せみも驚いて飛び、可愛そうなチョッパーの立派な角に止まってみんみんやりだした。
 勿論万年雪のドラムのトナカイには、初めての体験だったろう・・・・・・ころりと転がったチョッパーは、耳を抑えて気絶していた。
 そして飛び立った蝉は、手近な緑・・・・・・ゾロの頭へ。みーんみんみんみん。
「笑うなラヴコック!」
 そりゃ無理な注文だ。


 サンジが耳栓代わりするコルクを探しに倉庫へ降りていくと、そこには先客が居た。
「ビビちゃんどうした?」
 カルーにしっかとしがみ付き(このクソ暑いのに)耳を抑えてこちらを見上げる、ビビの眼はこころなしか潤んでいる。
 あーなんて可憐。
「・・・・・・今度はどんな化け物が出たんですか?」
「化け物じゃないよ。ただの虫」
「虫の声なんですか!?」
「海王類が吼えてるみたいな、ね」
「・・・・・・大きいんですか?」
「俺の親指くらいかな」
「黒くて嫌な感じだったりします?」
「それは大丈夫だよ誓って言える。アレの仲間じゃないから安心してよ。俺も海上生活長いからね。昆虫にはあんまり詳しくないからよく分からないんだけど」
 どっかで言ったような台詞じゃないかい?
 相変わらず上ではみんみんやっている。どたどたと走り回っているのは、どうせルフィあたりが騒いでいるんだろう。
「ナミさんにも言ったんだけど笑って教えてくれないんですもん」
「虫は苦手?」
「アレ以外の甲虫ならどうにか・・・・・・それよりかこの音が。サンジさんも逃げてきたの?」
「料理人は台所から離れらんないんです。耳栓探しにきたのさ。ビビちゃんもいるかい?」
「ぜひとも欲しいわ」
 あれでもないこれでもないと探し回るうち、こちらの計算より妙に空き瓶が多いことに気付いて憮然としたりもしたのだが。
 何にも聞こえないわー、と理由もなく楽しそうにビビちゃんがはしゃいでいるのを見るのは、結構楽しかった。
 眼つむったら誰もいないみたいー、と今度は寂しそうな顔をしているのが、あーなんて可憐。
 上ではそんな雰囲気もぶち壊しにみんみんどたばたと大騒ぎ。それも耳栓をしてしまえば邪魔には全然ならなくて。
 いい雰囲気だと手を伸ばしかけたらカルガモに阻まれた。なんて忠実なクソ鳥め。
 と思ってたらビビちゃんがカルーを宥めつつ退かしてくれた。
 勝った。
 サンジはそう確信した。したのだが、
「おれにも耳栓〜!」
 扉を開ける音は聞こえなかった。走ってくる蹄の音も聞こえなかった。
 当たり前だ。耳栓をしていたのだから。
 二人の世界に酔っていた、という可能性も捨てきれないが。
 後頭部に衝撃を感じ、視界暗転。前につんのめったサンジの背中からおまけの止め。
 獣型で突っ込んできたトナカイの立派な角がぶすり。
「きゃーっサンジさんがーっ!!!」
 お気の毒様。



 ナミはデッキチェアに長々と寝そべって甲板の大騒ぎを眺めていた。
 網を持ってルフィが追い掛け回す。蝉はマスト壁面ゾロの頭を飛び回る。
 ぎゃあ冷てぇとウソップが喚くのは、多分ひっ掛けられたのだろう。
 コントロールを誤ったルフィがこの騒乱の只中でまで昼寝中のゾロを捕獲してみたり、怒ったゾロが網を破いたら今度はウソップが逆ギレしたり、ところで倉庫から出てこない1人と1匹は何やってるのかしらとか。ありていに言えば暇だったので、観察などしていた。
 蝉が鳴く頃はよく泣いた。
 泣き貯めたといっていいくらい、始めの数年は良く泣いた。
 あの儚い轟音はいい隠れ蓑になったので。
 
 みんみんぜみは7年間土の中にいる。
 抜殻は透き通って脆い。
 命は一週間。
 

 大きくはばたいた海鳥がマストを掠めて飛んだ。
 ジジジと鈍い声にルフィが怒鳴る。
「こらーっそれは俺の獲物だ食うなーっ!」
 さもないと食ってやるー! とルフィは捕獲にかかったが、
「焼き鳥にして食っちまえ!」
 檄を飛ばすウソップにバードミサイルをくれてやって、鳥は悠々と飛んでいった。
「食われたのか?」
「食われたかもな」
「食うのか?」
「そりゃ食うだろ」
「うまいのか?」
「知らねえよ」
 やがて、見張り台の底面からよじよじとマストにへばりついて、ジジジジジと羽根を振るわせたたかが虫に、ルフィは狂喜した。海賊旗のはためくあたりでひとしきりみんみんやって、それからおもむろに何処か目指して飛んでった。
「おいゾロ、せみって食えんのか」
「食わねえだろ普通は」
「鳥は?」
「カモメなら魚でも食ってんだろ」
「そうか」
 それならよし、と船長は頷いた。
 何がよしなのかはよくわからない。


 避け損ねてやられた髪の毛を洗おうと倉庫に続く扉を開いたら、真っ青な顔で抱き合っている二匹一組と二人一組がいた。
「お邪魔さまで」
 ペコリと一礼して逃げ出そうとすると、瀕死の風情のサンジが低くうめいた。
「刺されたかと思ったぜ・・・・・・」
「なっ・・・何に何を・・・・・・?」
 しまったつい訊いちまった。
「角にナニをだよ・・・・・・クソ・・・・・・」
 ああ生きてて良かった楽しい人生まだまだ続くぜこのやろう。
 乾いた笑いがあんまりにも恐ろしいものだから、やはり真っ青なビビに助けを求めたら、
「トニー君を早く逃がしてあげてください。できればナミさんに匿ってもらって」
「・・・・・・なんで?」
「燻製にされちゃいます」
 俺は一歩後退った。
「・・・・・・ウソップ、ビビちゃんの頼みを断るわけねえよな?」
 がくがくと頷き、
「だが同じ男として俺の恐怖が理解らないわけもねえよな?」
 チョッパーを連れて逃げた。


 うつ伏せに寝そべっていたら背中に何かちくちくした感触。
 広く開いた方の後ろあたりに、何か乗せられたような。
「なーに、悪戯したら怒るわよ」
 起き上がって文句を言おうとしたら「悪戯なんかするかよ」とゾロが言った。
「・・・・・・あらしょっちゅうじゃないの」
「お望みなら幾らでもしてやるが?」
「断じてお断りよ」
 少なくともそのちくちくは動いたりはしなかったし、ゾロの口調は極めて平静だったから、私はそのまま寝そべっていてやることにした。
「何? 乗せたの」
「抜殻」
「蝉の?」
「てめえの抜殻」
 せみなら飛んでっちまった。


「ナミ助けてくれぇー!!」
 人獣型でぴゃーっと走ってきたチョッパーがゾロの膝裏にぶつかって転んだ。
 間抜けにもかっくんと脱力したゾロが、ナミの上に倒れる。
「あらチョッパーどうしたの?」
 倒れこまれてもまるで気にしてないような口調でナミが問い返した。
「て、てめえって女は・・・・・・」
 鳩尾を抑え起き上がったゾロががくりと膝をつく。
「肘打ちよ、安心なさい」
「急所に入りゃ痛えんだよ!!」
「それでどうしたの? チョッパー」
「綺麗に無視してんじゃねえよ!」
「燻製にされる!!」
「あー、お邪魔しちゃったのね」
 よしよしと頭を撫でてやってる横からいきなりルフィが割って入った。
「燻製ってうまいよな!」
 ああ、とゾロが頷く。
「酒のつまみにゃ悪くないな」
 その眼にはあきらかに低レベルな悪意が満ちていた。


「待ちやがれ燻製ーっ!!」
 上から恐ろしい悲鳴が聞こえてくるのをウソップは毛布を被って聞いていた。
 バードミサイルの事を忘れていた彼は、翌日洗濯当番をおしつけられることになる。


 空き瓶に放り込んだ蝉の抜殻をナミはからからと回した。
 蝉は七年土の中に居る。
 みかん畑から飛んでった。
 これは抜殻。

 ナミさん、俺服買いたいんだけど
 ビビと買い物?
 いや俺の。ちょっと穴が開いちまってさ。
 繕ってあげましょうか? 有料で。
 いや、いいよ。何せ場所が場所なんで。

 あーナミせみの抜殻持ってたのお前か! くれよ!
 抜殻なんかどうするの。
 どうもしねえよ。
 そのうちなくすんでしょ。
 なくすかも知れねえけどなんか欲しいんだ。
 
 ナミに迂闊に近寄れない。
 腕さえ封じれば後は問題ないんだが。
 流石に膝蹴りはしてこないと信じたい。
 確信が持てないのが辛いところだ。



   ところでみかんの根っこに紛れてきた蛹が、一つだなんて誰が言ったのだろう。
 夏島が近付くに連れて、船内は騒乱地獄と化す・・・・・・かもしれない。






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