桜貝の君




 夕飯の後、ナミさんはダイニングで航海日誌をつける。曰く、静かにお茶を飲むついでに、だそうだ。俺は彼女の斜め前で献立表やら仕入れやらの計算。真剣な顔で綺麗な時を綴ってくナミさんの横顔、っていう実に魅力的な理由もあるけれど、実際問題としてはもっと切実。男部屋に戻って静かに書きものなんてできるわけがない。
 船長は肉と喚くが、海上なら魚主流になるのは当然。野菜類の保存の都合もある。寄港地が選べないグランドラインは、俺のトラウマ的には危険極まりない海域だが、今のところは挑戦意欲の方が勝っている。まあ負けたと思ったらおしまいだろう。
 しかしながら胃袋底無しの船長との戦いは楽ではなく。
 俺が悶々とリスト片手に唸ってると、いつの間にかナミさんがこちらをじっと見つめていた。
「・・・・・・どうしたんです? ナミさん」
 見つめて称えるのには慣れているが、見つめられるのはそう多いことではない。ましてや相手が愛しのナミさんだったりした日には。
「そこでラヴコール始めないでねサンジ君!・・・・・・手、ちょっと見てたのよ」
 先回りされてしまった。溜息代わりにぷうと吹いた煙草の煙が、ハート型に浮かんでゆらり消えた。
「人差し指の横、包丁だこ?」
「ああこれ? そですよ。ついでにいうなら鍋だこもこっちにあります」
 ぱーにしてみせた手のひら。ほんとだ、と言ってナミさんは自分の手を見る。
「私も。こことここ、ペンだこね。固くなっちゃっててお洒落じゃないけど」
 地図描きなら勲章よね。
 パンと両手のひらを打ち合わせて笑った。
「サンジ君のさすが料理人てとこね。包丁と鍋か・・・・・・。ゾロの手見たことある? 全面がつがつに固いのよ」
「なんとなくわかります」
「最初は柔らかい手の皮が、たこが出来て破れて。それでも剣を振るいつづけて。そうすると固くて頑丈すぎるくらいになるんだって。野蛮よね」
「あいつらしい」
「でもなんかかっこいいわよね」
 ひどいなー惚気ですか? 航海日誌も書き終わってるんでしょ。俺なんかからかってないで部屋に戻っちゃえばいいんですよ。
 俺は大仰に拗ねた振りをしながら自分の手を眺める。何より大事なこの両の手。小さな頃から握ってきた包丁がないと、手首から先がないような感じだ。たこは両手にある・・・・・・そういえば慣れる前は鍋の重さに手首を痛めたこともあった。情けない話だ。
「ねえ、サンジ君知ってる?」
 ふいにナミさんが俺の隣に立った。背を屈めて耳元に吐息が掠めるくらいの近さで囁く。俺は何を言われるかと年甲斐もなくどきどきしながら、彼女の言葉を待つ。
「ビビの手は白くて小さくてすごく柔らかいのよ」
 不意打ちで俺は無様にも椅子から飛び上がった。
「柔らかくてあったかくってねー。知ってる?」
 ナミさんは綺麗で素敵な人だけれど・・・・・・・時々随分人が悪い。
「このあいだ、ビビの白いきれーいな手の甲に、キスマーク見つけちゃった」
 がたたんっ! と、けたたましい音を立てて椅子をひっくり返した俺に、ナミさんはとてもお上品な笑みを浮かべて言った。
「う・そ。腕ならともかく手の甲じゃ人目につきすぎじゃない。皆気付いちゃうわ」
 サンジ君そんなに思慮欠乏症じゃないものねぇ? と極上の笑み。
「ナミさーん・・・・・・」
 遊ばれちまってるぜ、なんてこった。
「私そろそろ部屋に戻るわ。明後日・・・・・・いえ明日の夕方には次の港に着けそうよ。サンジ君も食糧計画おつかれさま。少しはゆっくりしようと思ってるから、ビビ誘って買い物にでも出たら?」
 とてもとても楽しそうなナミさん。俺はいまだ脱力状態。
「そうだひとつ助言しとくわ。目ざといサンジ君なら気付いてるとは思うけど」
 ふと真顔になって、少しだけ声をひそめて。
「ビビ、爪噛み癖あるわよ。いろいろ焦ったり、気になったり、心配したりしてると、無意識でやってるわ。今朝もやってたのよ。なんでか分かる?」
 今朝。今朝といえば、ああ、そうか。予定外のつまみ食いに焦って・・・・・・。
「食糧調達の責任は私にもあるしね。サンジ君も大変だとは思うけど、私もよくよく言い聞かせとくから」
「俺そんなにあからさまに焦ってましたか? かっこ悪ィなぁ・・・・・・」
「あれで焦らなかったらそっちのが問題でしょ。貯蔵ゼロ! まあ、ビビはサンジ君の事となるとすごい眼力だし」
 だからさ、安心させてあげなさいよ。手ぇ繋いで。抱き込んで。包みこんで。
 言うだけ言ったかとおもうと、ナミさんは日誌を抱えて、軽い足取りで俺から素早く離れた。
 だってさ・・・・・・と、冗談ぽい笑みで実はてれた笑顔で。
「ビビが沈み込んでちゃ私だって厳粛になっちゃうじゃない。そうしたら今度は欲求不満で私が爪噛んじゃいそうだもの。じゃあねオヤスミっ!」
 ひらりと、とてもとても軽い足取りでナミさんはダイニングを出て行った。
 俺はナミさんの台詞がおかしくて暫く一人で笑ってた。
 それでしばらくしてはたと気付いた。今夜の見張りはゾロだっけ。
 はは。なるほど。


 かっきり三十分経って、次の仕入れのリストをまとめ終えた俺は、紅茶のポットとビスケットの皿とを片手に、倉庫の扉を開けた。船首の方のひそやかな会話が一瞬途切れたのが気に入らなくて、むしろずるいと感じたりして。少しせっかちに倉庫の扉を蹴り閉めた。
 ノックした扉が開いて、彼女の驚いた顔が笑顔に変わる前に。キスするならやっぱりおでこだろうそれとも指がいいかな両方は無理だけど。そんな欲求不満をどうにも抑えかねて。
 すぐさま抱きしめて触れたいと思った。
 小さな白い柔らかい綺麗な、俺が簡単に包み込んでしまえる、手の。桜貝みたいな爪の先のほんのちいさなささくれが、どうにもこうにもいとおしくて。

 恭しくそっと口付けたんだ。






そしたら君は僕を天使魚と呼んだ


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