【恋・愛】
〈Side:zoro〉




 愛なんて言葉の意味さえ難しすぎてわからない。


 ダイニングの裏側。船尾にある蜜柑畑への階段に、ナミは座り込んでいた。開けっ放しの薬箱を傍らにおいて、包帯片手に四苦八苦している。
「巻き方忘れたのか?」
 声をかける前から、ナミは俺が近づいていくことに気付いていたようだった。
「手が届かないのよ。膝曲げると包帯たるむし、床に座ろうとすると痛いし、座ったまま前屈むと滑り落ちそうになるし」
「・・・・・・貸してみろ」
 包帯がいいかげんに絡まった、白く細い足首。ナミの真向かいに胡座をかいて座り込んで、包帯と湿布受け取った。華奢なナミの足は、爪先は冷たいが、掴んだ足首は随分熱を持っていた。左右比べてみると、確かに腫れている。
「踵で床ちゃんと踏めるか?」
「ちょっと痛いけど、何とか」
 それなら骨に異常はない。
「気をつけろと言ったはずだ」
 余り強く引っ張らないように、丁寧に包帯を巻いていく。足裏に触れると「ひゃ」と妙な声を上げた。
「ペンキが剥がれてたのよ。手に刺さったのがあんまり痛かったもんだから、つい手離しちゃって」
「傷は?」
 ほら、と差し出した掌の、親指の付け根辺りに小さな切り傷。容赦なく消毒液をぶっかけると派手に泡を立てた。
「潮風で錆びてたら傷ごと腐るぞ」
「分かってるわよ・・・・・・」
「次からはちゃんと軍手しとけ」
「うん」
 思いのほか素直に肯く。肯いて、俯いたまま俺の肩に寄りかかる。その気配が静かで落ち着いていたから、俺は片手で薬を片付けながら、夕焼け色した柔らかな髪を撫ぜた。
「グランドラインの風には恒常性がないんだろ。んなもんいくら計ったって、海図に描き様がないんじゃないのか?」
「うん。でもね、何か法則があるのかもしれないって思って。この航路の謎の一端でも解き明かすことが出来たら・・・・・・」
「四六時中無理してやる必要が何処にある」
「それがわたしの夢なのよ」
 背中にまわった両手の指には、甘さとは無縁に強すぎる力がこもっていた。
 前に傾きすぎて階段から滑り落ちそうなナミの身体を、腕の力だけで支え膝の上に抱き寄せた。
「夢追って生きてるのはわたしも同じなの」
 ナミは腕の指針を確かめた。目の覚めている間は、瞬きするのと同じくらいに繰り返すその仕草。薄いガラスの指針は壊れやすくて、俺は触らせてもらえない。腕の指針に触れないように、中途半端に隙間を空けて抱え込まなけりゃならない。
「だからって無理する言い訳にはならねえだろう」
「あんたに言われたくないわ」
 そう言って、ナミは例の大傷を突付いた。言いたいことは良く分かる。んだが。
「それとこれとは、なんか違うだろ」
「どこが違うのよ」
「海図の描き過ぎでぶっ倒れたとかいうんなら、まあ同類項なんだがな。おまえのは、なんていうか・・・・・・」
「素振りのし過ぎで寝不足になったとか、そういう事?」
「・・・・・・お前の例えは難しくてわからん」
「大丈夫よ。あんたのもさっぱりわかんないわ」
 ナミはまた指針を確かめた。
「そんなに簡単にずれるもんなのか?」
「そりゃあもう見事なくらいにね」
 しかし、慌てたナミが進路訂正を叫ぶのは多くて一日に二、三度で、それだってずれたらずれたなりに正しい方向を教えてくれるのだから、どうにもならぬというわけでもない。
 ほんの五分くらい、腕の指針を外してたっていいだろう。
 中途半端な隙間が気に食わないのは俺だけだろうか?
「何か文句ある?」
「・・・・・・文句なんかねえよ」
 腕の中から逃れ出ようとするから、あきらめて放してやると、ナミは丁度半回転する形で膝の間に収まった。要は座椅子代わりにされたわけだ。だがこっちの方がまだましってものだ。俺より腕の分だけ細い肩ごと、すっかり抱え込んでしまえる。
 そしてナミは指針を確かめる。
「ねえ、ゾロ」
 辺りは殆ど薄暗くて、指針の針の色もはっきりとは見えない。見えないのにナミは指針を眼の高さに掲げて、視線をそこからそらさない。
「指針の読み方、簡単だから教えてあげようか」
「・・・・・・どういう気分の変化だ?」
「もし仮に、・・・・・・私がいなかったら」
 一言ずつ言葉を選びながらナミは喋る。
「・・・・・・あんた達全員迷子になっちゃう」
 選んだ言葉が結局それか?
「ルフィは船長だけど、指針なんか持たせられない。直ぐ壊されちゃう。サンジ君は一見生真面目かもしれないけど、キッチンに立ったら最後よ。何が起こったって気付かない。ウソップにこれ以上仕事を押し付けるのは酷ってもんだし。そうなったらあんたしかいないのよ」
 ねえ見て。私が腕を返せば・・・・・・ほら、印のついた針先が付いて来る。反対側に返せば・・・・・・ね? 何処にいても目的地しか指さないから、これさえあれば何処からだって目的地の方角がわかるのよ。後は船首を印と同じ方に向けておけばいいの。簡単でしょう?
「なんでそんなこと俺が覚えなきゃならない?」
「だから、さっき言ったじゃないの私がもしいなかったらって・・・・・・」
「いなくなるのか?」
 饒舌なナミは・・・・・・会話にもならないような俺に話し掛けてくる何時もより饒舌なナミは・・・・・・大抵の場合酷く辛そうな顔をしていた。出会ってから今までのどんな時でも。
 俺にできることは気付かない振りをすることくらいしかない。思うまま語れない俺の口から出る言葉は、見当違いの方向からこいつを追い詰めたり傷つけたりする。真摯であればあるほど、余計辛そうな顔をさせることになる。
 それがわかってるのにどうして俺は開かなくていい口をわざわざ開く?
 こいつを傷つけるために?
「もしもっていう言葉は、意味がないくせに時々残酷なのよね」
「・・・・・・・・・・・・」
「期待とか恐れとか、そういう味わわなくてもいい反動を連れてくるの。現実じゃないって信じきれないから。これからのことは誰にもわからないし、これまでの事だって、振り返ってみたら何処がどう確かだったのかわからないくらい、あやふやな確かさに縋ってきたなって思えるわ・・・・・・」
 ナミがする話はわからない。
「でも今この瞬間の私は、そう言うあやふやな確かさでしか語れないのよね。過去を切り離したら今の理由が無くなりそうだし、今の私が確かだと言い切れることなんて、殆ど何もない」


 ねえゾロ、今私はここに居るわよね?
 あァ、確かに居る。


「でももしも私がここに居なかったら?」
「・・・・・・この場合、そのもしもに意味はあんのか?」
「そう思うのが怖いって私は言ってるの」
 
 あんたとはまるで話が通じないわ。あんたが恐れているだろうものは、私には解るけどあんた自身は気付いてないみたい。気付いてないって言うより気が付きたくないみたい。
 
「ここに居させて」
 ナミが言う。話はすぐに次の話へ移り変わり、何時の間にか最初の話に戻っている。
「でも勘違いしないで。欲しいのは許可じゃないの。私がここに居たいといくら願っても、この場所がなくなってしまったら願いは叶わないわ」
 ・・・・・・確かすぎると思えるものが、そのことが起こるまでは想像だにしなかった新しい事実に踏み潰され、掻き消される。
 今日まで生きていること今ここに居ること今ここで誓うこと・・・・・・全て不確かだ。
 なにもかも。
「私の仕事なんて、いくらでも減らせるものなのよ。航海術を持っている人が航海士。一般論ではそういうことでしょう。ルフィはだから仲間って言葉を使うけれど、あいつはそれが何時でも、この瞬間直ぐにでも失えるものだなんて信じたりしない」
 
 ねえゾロ、私諦めなくて良かったわ。どのみち果たされなかった約束だけど、諦めかけた事がないわけじゃない。諦めたら文字通りそこで終わりだったんだもの。終われば楽かもしれないけれど、もしも全部上手く言ったらって思うと悔しくて諦めきれなかったわ。
 そして私は今ここに居る。

  「だから、もしも、なのか?」
「そうよ」


 もしもこいつがここに居なかったら。
 もしも追わずに行かせていたら。


 もしも諦めて死を選んでいたら。
                   もしもお前が死なずに居たら。
 もしも俺が生かされなかったら。
                   もしもお前が男に生まれていたら
 もしも出会わなかったら。
                   もしも剣の道を選ばなかったら。
 もしもこいつを助けられなかったら。
                   俺はお前の苦しみの助けになれたろうか?


  「怖いことでしょう?」
 だからルフィは強いのだろうかとふと思った。
 恐れるものがある方が人は強いというけれど、恐れ立ちすくんだ人は何より弱い。
 恐れを切り捨てて進むやり方は、避けようもない恐れの前には無力だ。

 誰かを生きさせることなんか誰にも出来ない。
 誰かへの力なんて持てるわけがない。


「・・・・・・あァ」
「だからここに居させて。もしも航海士の私が必要じゃなくなっても・・・・・・まず有り得ないことではあるけど・・・・・・何のために私がここに居るのか、確かに見える役割なんか欲しくないわ」
 できることがないと時々不安になるの。
 でもそのためだけに必要とされてるわけでもないわ。
 そう思いたいの。


「だからどうせなら愛が欲しい」


 なにか、とてもよく解らないことを言われた気がした。
 そこで出てくる愛って何。
「瞬間瞬間に変わっちゃって、不変なんてありえないこの世でも一番不確かなものよ・・・・・・人間の感情なんてのはね。何時でもそれ自体の勝ちが不変なのはお金。私が一番大切なもの。・・・・・・でもそれは誰にとっても同じ事だから」
 ナミの言葉は解らない。
「だから私にしか価値がないものがいいわ。私以外にとっては何の役にも立たなくて、それが確かだなんて本人にさえわからなくて、証明も保証も何の価値もあてはまらないようなものがいい・・・・・・もしもなんて言葉すら使えないような、私が信じた時しか価値のないものが欲しい」
 よく解らねぇと言ったら怒られると思った。大概そういうもんだった。
 けれどナミは怒らなかった。
 怒らない代わりに、暗くてよく見えない指針を掲げた。
「指針の見かた教えてあげるわ。覚える覚えないはあんたの勝手。私はもう見張り台には上がらない。高いところは別に苦手じゃないけど、一度落ちかけた場所はやっぱりちょっとね。足も当分無理がきかないし」
 壊れやすい指針が退いた。梯子から落ちたと聞いた時は酷く嫌な感じがした。
 指針の見方はわからなくても見張りぐらいいくらでもしてやる。
 だからこっちを向いて喋れ。誉めてるわけじゃないけど演技が達者過ぎだ。
 言葉は難しくて解らなくても、顔見れば考えてることなんて大体解る。
「もしかして寂しいのか」
 雑念交じりの思案の末に紡ぎだした言葉に、ナミが漸く振り向いた。
「もしかして、ですって?」
 だってしかたないだろう。お前の話はややこしすぎて俺にはよく解らない。
「寂しいなんてものじゃないわ。言葉が通じないんだから。解ってはいるけどあまり楽しい気分にはなれないの」
「・・・・・・何処にも行かねぇし、行けねんだから。安心しとけ」
 俺の台詞にナミは憮然として口を歪めた。
「あんた何処まで解ってて何処から解ってないの?」
「もしもお前が居なかったら、俺らは漂流して難破して全滅するだろうってことなら、解ってるつもりだ」
「・・・・・・・・・・・・」
「ただこの海の異常さ加減だと、お前自身が保ちそうにないから自重しろと、言ってる」
「・・・・・・それは、心配してくれてるってことなの?」
「・・・・・・・・・・・・」
 抱え込んで視線を合わさないまでも、どんな表情でこちらを見上げてるかなんて簡単に想像がついた。
 何か企んでそうな、無邪気に喜ぶ子供めいた、強かな表情はこの女の専売特許。
 言い返す言葉が見つからない無言は肯定のしるし。


 ねぇゾロ。あんたが怖がってることは、絶対に起きないから安心して平気よ。
 
「・・・・・・お前にどうしてそんなことがわかる?」
「私がそう思っただけよ。確証はないの。しかも怖いものはどんどん増えていくわ」
 多分最初に会った時より確実に増えてるし、これから多分もっと増えていくはず。
「でも多分あんたが恐れてるようなことは起きないわ。あんたがあんたでいる限り」
 謎賭けそのもののナミの言葉には、まだ慣れられそうにない。
「だから・・・・・・そうねだから、愛が欲しいわ」
「何が『だから』なのかわからん」
「私のことを『もしも』で語らないでって事よ。過去形にも仮定形にもされたくないの。怖すぎるじゃない。後悔してるみたいで。だって私はここに居るんだから」
 ぎゅうとしがみついたっきり、捨て台詞めいた勢いでそれだけの台詞をナミは吐き出した。けれど腕を廻そうかと思った瞬間には、ついと離れて、手を差し出された。
「足が痛くて歩けないわ。手貸して頂戴?」
 使われるのは嫌だと逆らってみてもあまり意味はないし、あれだけ腫れてれば相当に痛いはずで、仕方がないからその手を取った。けれど。
「遅いのよ」
 そう呟かれ。
 腹いせに、いきなり買い物の荷物のように担ぎ上げたら、いきなり何するのよ! とやかましく喚かれて、背中を散々殴ってくれて。
 それでいて部屋の入り口手前で下ろそうとした時には、頭にしがみついてた腕がなかなか剥がれてくれないものだから、色々な意味で少々困ったんだが。


   なあナミ。お前の話す言葉は俺にはよく解らない。
 とても深い意味があるのじゃないのか?
 それとも字面通りの意味だけでいいのか?
 できればお前が願うとおりになって欲しいとは思うのだけれど、
 お前の顔や眼や表情からわかるのはまるで違う内容なもんだから、余計混乱する。


 特に解らないのは、あれだ。
 だから要するに、お前が欲しがってるところの愛って何?






単純な言葉ほど難しい


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