老水夫海に出る




(静かで、落ち着いて飲めそうな店だと思ったんだがなァ)
 渋面でつつく、肴の出来はまあまあだ。酒も悪くない。悪いのはゾロの後ろ、狭い店の一角で場違いな色気を振りまいている、この小さな港町の飲み屋の自称「歌姫」だった。
 他の客は冷やかし半分本気半分で野次を飛ばす。それに答える女の歌声は、酒か煙草か、掠れてしまってどうにもならない。
 歌っているのは、どこにでもありそうな悲恋歌。最初は静かな良い店だったのだ。突然問題の女が登場するまでは。ああ全くどうにかしてくれ気が滅入る。
「もう止めときな、若造」
 片手で頭抱えて突き出したグラスは、そんな台詞と共に押しかえされた。
「若造言うな、じいさん。それよかあの女、一体いつまで歌うつもりなんだ」
「ラネイのことか? 気が済むまでさ」
 グラスを磨きながらのんびり答えるじいさんは、多分もう耳が遠いのだろう。再度突き出したグラスは、両者の手の間で力押しとなる……が、結局折れたのはゾロの方だった。
「なんだよ……やたら馬鹿力だな、じいさん」
 押して押せない力ではないが、そうしたらグラスが割れてしまう。それは良くない。しかし思いがけぬことではあった。しわのよった、骨と皮ばかりのような腕の、どこにそんな力があるんだと、ゾロは改めてじいさんを見た。
「昔はこれでも船に乗ってたんさ……樽飲みパタラってな、十五の年から十年以上なぁ」
「海賊だったのか?」
 背後では女の絶唱が続いている。
 のたりのたりでも、年寄りの昔話の方がいくらかマシだ。
「ああ。ゴールド・ロジャーよりずっと昔の事だなぁ。良い船だった。気の良い船長だったさ」
 懐かしむような表情で、じいさんはグラスを磨く手を止めて、じっと宙を眺めた。
「大酒飲みの船長でな、樽が空っぽンなっちまうまえにおれが止めなきゃならねんだ……おれは下戸なんでねぇ……頼んだぞォって言っときながら、船長全っ然言う事聞かねかったりしたんだよ」
 ちなみに、つい今さっきも店の最後の樽が空っぽンなっちまってな、と小声で付け足す。
「べろべろに酔っ払ったある晩だ。嵐が来て、みィんな海の底に沈んじまった。俺のほかに助かった奴もいたかも知らんが、もうずっと昔の事だ」
 じいさんはグラスを拭く布巾の端で目尻の涙をぬぐった。陸に上がって干上がったはずなんだがなぁ、と言いながら。
「それで、海に出んの止めたのか」
「人生賭けんのは一度だけだ。二度はやんねえ。だが」
 もう一度だけよう・・・・・・。
 このじいさんは、もしかしたら見かけほど年ではないのかもしれないと、ふとそう思った。ただ、老いてしまった。力溢れた日々を突然に終わらせて、後に残った長い人生は決して無為ではないけれど。
「ラネイもなあ、何時まで待つつもりなんだろなぁ」
「待ってんの、海賊か?」
「いんや、堅気の船乗りだな。戻ったら一緒んなるて約束したんだと」
 へぇ、と振り返ってみたが、そんなロマンスに似合う風情でもなく、いまいち理解しがたい。
「ほんの一時立ち寄っただけの、異国の船乗りなんぞをよう」
 じいさんはまた一粒涙をぬぐった。
 女が違う歌を歌い始めた。野次はもう賭けられず、しみじみとしたその場の雰囲気に、どうにもやり切れず席を立とうとした。
 その時だった。
 入り口の扉の色付きガラスの窓越しに、誰かの影がふいと不自然に過ぎった。ざらつき軋みを訴える直感。カウンターのかげになっていた、刀の鞘が重い音を立ててふれあう。立ち上がりざま鯉口切ったその瞬間に、古びた木の扉は蹴り砕かれた。


「始めに礼だけ言っとくか。てめえのおかげで今や俺が船長だ。あんなクズでも相当な賞金だったそうじゃないか。感謝料は、それで十分だよなあ?」
 潮と酒と血の匂い。ぎらつくカトラスの零れた刃。
「海賊……!!」
 悲鳴に似た呟きを誰かが漏らした。そこにある恐怖心に満足げな顔をする、外道。ざんばら髪の連中の、腕に彫られた揃いの刺青には覚えがあった。ほんの数日前、同じ刺青のある男を、半殺しで捕らえたばかりだった。
「海賊狩り」、「魔獣」、いらん噂が一人歩きすると、こういうことも起きるようになる。が。歓迎などもちろんできるものか。
「礼にしろ、そうじゃないにしろ、店ん中じゃあごめんだな。何の用だ」
 刀を抜かぬまま、戸口に仁王立ちに立ち塞がる海賊に向かって一歩歩く。相手はどうせ雑魚。しかし場が悪い。
「旗揚げの祝いの記念に、てめえが最適だと思ったんでよ。ちっと探したがな」
 居合わせてしまった不運な町人連は、息を殺して店の住みで身構えている。余計な動きはするなよ、と心の内で念じて、また一歩踏み出しながら腕の手拭いを解く。
「悪名高い海賊狩りのゾロを、逆に狩りゃあ名も上がるってもんだ……野郎どもやっちまえ!!」
「隠れてろ!!」
 叫ぶのと同時。瞬きもせぬ間に閃いた二刀の流れは、砕かれた扉の一歩外で、もう慣れた独特の手応えを瞬間伝えた。踏み出した勢いのままに、斬り飛ばされた男の身体が、乾いた路地に土埃立てて転がった
「さぁ……次に船長は誰がなるんだ?」
 音を立てて噛んだ刀に、男の呻き声が重なった。
 乾いた土に、赤黒い血が緩やかに染み出し始めていた。


 海軍は翌日昼過ぎになってようやく現れた。海賊狩りから逃れた残党を追ってきていたのだと言う。その割には遅い到着だ。町にはわずかな謝礼金が残された。一応の事情説明と、薄っぺらな書類に名前だけ書かされた。縛り上げておいた連中を全員積んで、海軍はどこだかの基地へ帰っていった。その頃にはもう、陽は西へ大分傾いてしまっていた。
「とんだ迷惑かけちまったな」
 元より長くいるつもりではなかった。半島を越えた向こうにはもう少し大きな町があり、初めはそこへ行くつもりだったが、潮に流されてしまったのだ。
「いんや、ええさ。しっかし海賊狩りかい。近頃はそんなもんもおるんかい」
「ああ、あんたが海にいた頃とは、大分違ってるかもしれねぇな」
「海軍の船見るとびびっちまうのは、同じだがなぁ……海賊なら何でも狩るんかい?」
 少し引け腰にこちらを見た、グラスを磨く手が震えている。
「いや、殆どは親玉だけだな。それに俺は海賊狩りだなんて名乗った事は一度もねえんだが、何時の間にかそういうことになっちまった」
「それなら海軍よかマシだぁなぁ。船長も奴隷も、一緒くたに大砲で沈めちまう海軍よかぁなぁ」
「海軍ってもいろんなのいるみてぇだからわかんねえけどな」
 気の毒なじいさんはそこではじめて、に、と笑った。
 店は昨日と変わりなく、こうして話す間にも町の男達がちらほらと集まり始めていた。店の二階から、一歩ずつ踏みしめるような足音が聞こえてきて、ゾロは席を立った。
「おい若造、餞別代りにこれもってけ」
 じいさんがそう言って寄越したのは、ラベルの無い蒸留酒の瓶だった。
「貰ういわれはないぜ、いいのか?」
「海賊話聞いてくれたろが。・・・・・・いつかまた海で返せや」
「そうか……ありがとう。いい船出を」
「おお、海賊万歳。わしは海に出るぞ。きっと・・・・・・きっと」
 壊れたままの扉の代わりにと、釘で止めた暖簾をくぐり、外へ出る。半島越えの道は左、港は右。陸路の方が迷う事は少ないだろうが、船を置いていくわけにも行かない。右だ。
 例の歌声が聞こえ始めた。ゾロは足早に道を行き過ぎた。


 ***


 早すぎる潮の流れに苦戦しながら船は港に入った。帆は畳まれ海賊旗は隠される。そうしてしまえばあまりに呑気で平和なゴーイングメリー号だ。
 港は居心地のいい程度に寂れていて、酒場の上に宿を取った頃から奇妙な既視感を覚えた。そしてそれは階段の軋む音と一口含んだ酒の香で、一気に鮮明な記憶に摩り替わった。
「見ろよ。歌姫の御登場だ」
 サンジが尻上がりの口笛を吹く。派手な衣装に身を包んだ女は高く結い上げた巻き毛を揺らし、愛想を振り撒く。スカートの裾に小さな手が見えた。たっぷりとした襞に纏わりつくようにして隠れては笑う子供が一人。
「些か年増の子持ち・・・・・・にしてはなかなかの女。歌の中身はともかく声は悪くねえな。・・・・・・いや、一回喉潰してるな。ハスキーでこりゃまた色っぽいことでv」
 あきれ果てたウソップは力なく首を振る。ルフィは何が気に入ったのか鼻歌で唱和しようとして見事に音を外している。ナミは・・・・・・俺の顔をじっと見て、問うた。
「来たことあるの?」
「ああ、多分ある・・・・・・あの女は、なんつったかな。忘れた」
「ラネイさんは御年四十一旦那は元船乗り、身内はじいさんが一人いて名前がパタラ」
 だとよ。とサンジは締めくくる。お前一体何時の間にそれだけ聞き出したんだ、とウソップがツッコミを入れた。
「・・・・・・そのじいさんも多分知ってる」
 はて、名前がパタラ。どっかで聞いた。
「パタラ・・・・・・『樽飲みの』? 昔いた恐い海賊の話に出てきたわ。敵船を沈めて捕虜に言うの。『飲みきれば助けてやろう。その時お前は我らが仲間』
樽一杯のお酒で、飲ませ殺すの」
「おっかねぇなオイ」
「ゴールド・ロジャーより古い時代の?」
「そうよ。ゾロ知ってるの?」
「気のいい船長」
 ナミは黙ってルフィを指差した。
「こいつ以外にらしくない海賊なんて聞いたことがないわ」
 そりゃごもっともで。
「元海賊の血が騒いだか。一昨年の嵐が近付いたある晩に、急に船を出したんだとさ」
 そうして帰ってこなかった。
 ふいに歌の歌詞が耳に飛び込んできた。
 腰を振り振り愛想を振り、自分たちが座っていた真横に来て、歌姫はどかんとガラスの瓶をテーブルに叩きつけるように置いた。
「じじいの餞別の酒さ」
 スカートの襞から顔を出した子供が、俺を見上げて小さな声で言った。
「ゾロ?」
 グラス出しな。と凄みのある声で要求され、思わず従ってしまった。
 周り中が興味深々で成り行きを見ている。そしてナミとサンジから恐ろしい圧迫感。
 なんであんたてめえどういうこと説明しなさいしやがれ!?・・・・・・と。
 ラネイは溢れんばかりに酒を注ぎ、その辺からぶんどった自分のグラスにも注ぎ、高々と掲げた。
「あたしはあんたが来るのを待ってたよ海賊狩り。あんたがじじいに思い出させた。あんたが連れてきた海賊と血の匂い」
 おどおどしたじいさんの別れ際の笑みをゾロは思い出していた。
「あの後海に出たのか」
「まずあたしの旦那が帰ってきて、帰ってきたその船に乗って、じじいは行っちまった。樽一杯の酒だけ連れて。だからじじいに乾杯」
 俺はガラス瓶を取り上げた。ラベルのついていない緑がかった瓶は、そう言えばあのとき受けとった餞別と同じかもしれない。
「だって名前の通りじゃないか。『樽飲み』の」
「酒飲みじいさんに乾杯!!」
「止まぬ船乗り魂に乾杯!!」
 ラネイの言葉をぶっちぎってルフィとウソップが叫んだ。
「あたしの旦那はね、真っ暗で臭い船底で、壊血病で血ぃ吹いて死ぬ寸前だったの。だけどあんたがその海賊を潰したから、海軍の病院で一命を取り留めたってなわけ」
 あの時座っていたカウンターの向こうで、船乗りにしてはひょろ長すぎる男が軽く頭を下げた。
「だから今日は恩人への奢り。だけど旦那があたしのところに帰ってきたら、じじいが海に出ちゃった。だからあんたはじじいの敵」
 だから奢りは取り消し。ニヤニヤと笑う正面、期待に目を輝かせていたルフィが沈没した。
「だけどまあ船乗り魂は止まらんわね。百越してもね。だからこの一本だけ奢り」
「なあそのじいさん、今頃どこの海にいる?」
 ルフィが真顔で、何かを思いついた今にも走り出しそうな顔をして聞く。
 ラネイは肩を竦めた。
「云十年前の思い出の海で、また飲んだくれてるに違いないよ」
「・・・・・・そうか。残念だな。だけど海賊なら仕方ねえな」
 海賊なら海か、処刑台だろ。
 一瞬驚きを隠せなかったラネイは、差し出されたルフィのコップに酒を注いだ。
「じいさんの船出に、乾杯」
 高く掲げられたコップに、店中が唱和する。
「ねえ海賊狩りのロロノアさんよ、あんたは今は何処の海に?」
 ルフィをくいと指差して、
「こいつの航る海に。・・・・・・悪いが一つ訂正させてくれ。俺ぁ今は海賊だ」
 海賊、と聞いて周囲がざわめいた。ざわめきは笑いに変わり、怒鳴り声に変わり、口笛に変わる。
 大海賊時代。この町も少しずつ変わっていくのだ。恐れ、喜び、祝い、詠う。
 海賊は奪い、殺し、踏みにじるもの。
 海賊は謳い、戦い、駆け上がるもの。
 樽飲みのパタラは今も酒を飲み明かし戦いに酔うのだろうか?
「海賊かい」
「ああ。仲間とともに、海へ」
「そうかい」
 ねえ聞いているかいじじい、パタラよ。
 いずれの世も、海へ駆り立てるものは友と酒と夢まぼろし。
 ラネイの今は張りのある声が、朗々と語る。友と酒と夢まぼろし、ルフィは小さく呟いて、コップの酒を飲み干し掲げ、叫ぶ。
「夢なんかじゃねえだろう。海に出るなら!」
 ああ、そのとおりだ、と眼を伏せる。酒をなみなみと注ぎ、掲げ、一息に飲み干した。
「海賊のロロノアの船出に餞別だよ。あたしの歌を聞いておいき・・・・・・今度は最後まできちんとね」
 古い時代の、港町の女の歌。船出を祝い航海の無事を祈る。
 また見える時があるならば、そのときは海で。


 海へと、船を出す。






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