水鏡




水底から上を見上げるとそこはめったに見ないほど明るくて、何故だろうかと一旦水面へ顔を出した。光の正体は雪だった。薄く曇った覇気のない太陽の代わりに、凍傷しそうな雪がきらきらと世界を照らしていた。謎が解けてしまえば雪などにあまり興味はなくて、俺は頭上にちゃんと在るメリー号を確認してまた水に潜った。
 水の中はとても澄んでいて、遠くの岩肌の隅々までも見渡せた。船体の底近くにフジツボを見つけたのでナイフを取り出してこそげ取った。貝の類があまり付くと船が傷むのだとナミが言っていた。わざわざ川を探して停泊するのも同じ理由。会ってごく初めの頃に物知らずと叱られた。
 水を掻くたび頬がちりちりと熱かった。凍りつきそうな水の感触は冷たいというより痛い。どんな陽の光にも溶かしきれないと思える冷たい雪。けれど金盥いっぱいに汲んだ雪の塊は、氷嚢に入れるとものの十分も経たずに溶けきってしまうのだった。


 何度も船室と甲板とを往復しながら指は赤くかじかんでしまった。交代を告げるルフィに毛布を預け、ダイニングで苛立つサンジから煮えたぎった茶を受け取り、船室へ続く階段を下りる。徹夜に近い看病でやつれ気味のビビが扉を開けてくれるのを待って、なるたけ静かに階段を下りる。ナミは半分眠ったままで、それでもこちらに気付いて首を少し動かすから、俺は今だかじかんで感覚のない手のひらを氷嚢代わりに額に乗せてやる。そうすると夢現のままナミはほんの少しだけ微笑うのだ。
『……ゾロ?』
 意識は直ぐに沈み込んでしまって、もう一度名を呼んでもナミが応えることはない。
 新しい氷嚢を作り変えてやって、頬に張り付いた髪を直して、既に冷め切った茶に手を伸ばす……伸ばしかけてビビに休むよう勧める。このままじゃあ病人が二人に増えかねないと、サンジが酷く気にしているのだ。
 辞退しかけたビビを、丁度様子を見にきたウソップが無理やりダイニングに引きずっていった。顔色の尋常でない悪さを、奴特有の率直さで労わって。そうしてこっちに目配せしてよこした。『後は頼むからな』
 肯き返して、薄暗い船室に取り残されて、俺は怖いようなある種の匂いに嫌でも気付かされる。今は微かに部屋の隅の方から匂うそれは、海軍の牢だとか潰した後の無人の海賊船なだとか、そういう場所で感じるのと同種の気配だ。死や病には、明らかな腐臭とは別に匂いがある。息をするごとにそれに冒されて行くような気さえする、匂い。強烈な負の気配。
 それがナミを遠巻きに取り囲んでいる。
『近寄るな』
『俺が許さない』
『連れてゆくことなど許さない』
 ひんやりとした静かな船室で、どこか遠くから波の音を感じながら刀を抱えて俯く。
『連れてゆくな』
 ふとナミの気配が変化する。何か求めている。声にならぬままの息だけの呟き。
 水?
 バネがはじいたみたいに立ち上がって、水差しを手にとった。けれど中の水はもう温く、何よりあの匂いに侵食され始めている。
 水差しを枕元から除けて、躊躇いもなく冷め切った茶を口伝えに含ませた。
一緒に僅かな命でも分けられたらと、ふと思った。


 冷たい水底から水面を見上げるうちに耳がきんと傷んだ。同じ感触を俺は確かに覚えている。アーロンパーク。ナミの檻。あの時は見上げた水面から、泣きそうな顔のナミが手を差し伸べてた。
『死ぬなんて駄目』
『そんなの許さない』
『ねえそんな眼で私を見ないで』
『あんたは馬鹿よ……』
 ナミは苦しみ耐え、俺は背を押すことも手をひくこともせず、ただ待つばかり。
 差し伸べられた手を逆に掴み返して引き寄せて、それで俺に何ができるだろう。
 死を望むならそれは容易い。方法はあくまでも容易い。一瞬で終わらせてしまえる。俺にその力はあるけれど。
 生かす方法などまるでわからない。
 ほんの一瞬の笑顔すら得難いのに。
『連れてゆくな』
 差し伸べられる手などまるで持てないことに気付いて船に残った。
『連れてゆくな』
 遠い昔、幼い頃はまだその事実に気付かずにいた。恐怖よりも怒りがあって、遅れて虚脱感に捕らえられた。今はただ遠巻きの気配すら恐ろしく、心の何処かで怯えすら自覚している。

『もう二度と失いたくはないのに』

 手を差し伸べたのはどっちだったろう。溺れかけた俺を引き上げたのは耐え切れなかったナミの手。全ての道が絶たれて立ち尽くしたナミに、差し出された手は他でもない俺達の手。
 けれど今俺のこの手では出来ることなど何もなくて。
 為す術もなく立ち尽くす。
『たすけて』
 神なんて信じちゃいないけれど他に何も思いつかないんだ。
 どうか連れてゆかないで。


 あまりの水面の光の眩しさに、透明な世界が滲んで歪んだ。
 呼吸が苦しくなって水面にあがる一瞬にも、差し伸べられる手を見た気さえした。






「大丈夫」と笑い飛ばしてくれりゃいい。いつものように。


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