戦争が始まりました。
病が手を伸ばしていきます。
言問
初夏の南仏。さくらんぼの実る頃。ジプシー達は収穫を手伝いながら東へ東へ旅していく。
日差しが延びていくその影を追うようにして。
やがて観光客がどっと訪れて、長すぎることはない素晴らしい夏が行き過ぎ、秋には茸の話。
吹き荒ぶ風の冬が来て、凍える家々に暖炉の火。クリスマスは家族と祝おう。
少し前に流行したプロヴァンスのエッセイを見つけて読んでみた。
いかにも美しい日々を綴った文章からは、あまり誰の声も聞こえてくる気がしない。
枕元のコルクボードには外国の絵葉書が数枚留めてあります。
表も裏も絵だらけの絵葉書が。
南国の花々、果物の山。市場の路地裏の流しの傍で、余りものにありついた猫の子の目。
喧騒は日暮れてやまず、色とりどりの光の渦に巻き込まれ溶けていきそうな夏の夜。
吊るされた鶏の向うの湯気の立つ大釜。店先で切り分けられる南国の果実。
絶え間なく行き交う空港のロビーの人の波、それを塞き止める高価な品々。
五感は満たされて一瞬全てを遮って閉じる。人込みの中私を見ているのは誰ですか。
わたしの眼はあなたを通して私と、今もその間にある世界を見つめている。
あなたは今どこにいますか。
受話器を置いたサンジさんは、首を横に振った。もともと無理なお願いだったのかもしれない。
カヤさんのところにも今のところ何の連絡もない。
編集部には当然ない。原稿も送られてきていないらしいが、それは珍しいことじゃないという。
「去年滞在してたホテルの話じゃ、夏の終わり頃に会ったのが最後らしい。ビザの都合だろ、そのあとパリへ出るとか言ってたらしいが」
世界中が、一日で行き来できる時代だ。
「あいつらが直行便で帰ってくるとはどうしても思えない」
「フランスからどこかへ行くとしたら、どこかしら」
「さあ、陸路でスペインか、列車でオランダ、スイス……イギリスもありうるな。南周りならもっと厄介になる」
「そっちは余り心配していないのよ」
「うん。連中が肺炎程度でくたばるとは思えない」
毎日感染者が増えていく。毎日死者が増えていく。
かつて疫病は天災の一つだった。世界が人を必要としていないのだとしたら。むしろ厭われているのだとしたら。
そう思い描く後ろめたさはきっとある。
不安を生むのはそんな不確かさではなくて、ただ無事を知らせる一本の電話が鳴らないことだ。
なんて信じ方だったのだろう。
不確かさをこれでもかと見せ付けられて、それでも私は(私達は)確信をもってやまないのです。
待ち望んでやまないのです。
弥栄、弥生。生の名に相応しい日々よ。
生きている。生きていた。冬から春へ、風はやがて海そのものから届けられる。
五月まであと何日ある?
本気で探すなら方法はある。大使館に連絡をとったり、航空会社に問い合わせたり、日本人連絡会もある。けれど今は四月だ。彼らは五月になると帰ってくる。
世界を一日で駆け抜ける風だ。海から吹いて私を(私達を)揺さぶる風だ。
信じるほかに何がある。何ができる。
『疑うな。悲しくなるから』
疑わせないで。私はいつでも信じている。
『悲しくなるのは疑われた方じゃないよ。信じられない何かを支えにするほど恐ろしいことはない。疑う心は弱くて脆い。傷は塞がらない。痛くて悲しいことだ』
5月になったらまたおいで、と言われた。はいと答えた。荷造りは済んでいる。ナミさんには呆れられた。
信じることに必死でいたいと思う。疑う暇などないくらいに。
花畑の絵葉書が一枚あるんです。
色とりどりに咲く小さな花の根が絡まりあう地中には、何万個もの地雷が埋まっているのだそうです。
花盛りの四月を揺さぶる、五月はいつになったらやってきますか。
たとえば見知らぬどこかの町の、西日の突き刺さる路地裏の、しゃがみこんでふとこちらを見上げた。
あなたが。
パソコンの画面の向うに見えた気がしたなんてのは、勿論ありえない嘘だ。
八つ当たりをしそうな自分に気付いて、やり場を無くし惑った手を掴まえられた。
何も言わないで助けてくれる貴方がいてよかった。
「今日は何日?」
「四月の、二十日」
「十五日で地球が何週できるかな」
「八週くらい?」
「あいつらの場合は一年かけたって一周できないだろうな。だけど、どこからでも真っ直ぐ帰るには十分だとは思わない?」
「そうね。そうかもしれない」
「一年分を話しきるのに何日かかるか、そっちのが俺には問題だ」
あまり長引いたら妬くからねと後ろ頭のあたりでサンジさんは呟く。
その声がわざとらしく楽しげなので、ふと数日前の夜のナミさんを思い出した。
お風呂から出てみたら、ナミさんが結婚情報誌のドレスカタログを丹念に眺めていた。
「やはりこれはどうせなら着てみたいなと思って」
「ナミさん結婚するの?」
「うん。5月にね」
「えええナミさんついに結婚しちまうの?」
「うん。しちまうんですって」
「いつかの5月に。多分そう遠くはない5月にね。ジューンブライドとかって梅雨まっさかりはいやよ。晴れてなきゃ嫌」
「五月晴狙いなの?」
「そもそも参列者が集まらないでしょうが。5月にしか」
「それなら私も、5月にするしかないんだなって気が付いて」
「それって……」
「たとえ相手が誰であっても」
「相手、ね」
サンジは微妙に距離を保ったままでしか抱けないビビの頭を、頬にぎゅうと押し付けた。
「一年に一度5月っきりってのを、もう少し増やせないもんかな」
「そうね」
「勝負時が少なすぎてやりにくいよ。居ない隙ってのもどうもフェアじゃない」
「手段を選んでいる余裕があるのかしら」
「それは俺も自覚してるんだけどね」
私の結論はいったんは出したのだけれど、返事待ちに一年は長すぎると思う。絶対。
不確かさを思って、そんな理由で傾く天秤でいいのかと、自分でバランスを取っているつもりで実は重心も定まらない私の心まで、任せろと言い切るのならどうか早く帰ってきて。
せめて電話一本でいい。そうすれば私も、私の悩みも一斉に動き始める。
花盛りの四月を揺さぶる5月の風をください。
海の向うまで一日で駆け抜けられる小さな世界が、あなたを捕らえて私を(私達を)待たせつづける大きな世界と、確かにつながっているのだと知らせて、ねえルフィさん。
戦争も病気も同じこの世界の疑い悲しみで、たとえ足元が地雷だらけでも、花は咲くんですと写真までもが証明してみせてるじゃない。
だからせめて5月までは待ちますから、会いたいの。
あなたは今どこにいますか。
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