日々在ル幸福
午前7時
まずはやかんに湯を沸かす。
片手で茶を入れ反対の手でパンを出し、パンを切り終るころには丁度いい加減の紅茶を注いで、戸棚のジャムを並べて、チーズを切ってハムを炙ってりんご切って、昨夜の別鍋のスープをよそいながら振り返れば、ナミさんがおはようと入って来る。
「おはようございますナミさんv」
ナミさんは大概小脇に海図とノートとインク壺を抱えている。朝一番には海図の確認をして、いろいろと打ち合わせなどもあるので。自分としては一番幸せな一日の始まり。
時々頬にインクがついていたりする。
さらに時々二の腕にキスマークがついていたりする。
・・・・・・ま、最後のは見なかったことにするしかねェだろう?
「ナミさん、頬っぺたにインク」
「やだ、また付いてる?」
ぐしぐしと擦ったら広がって、真っ黒だ。
「ほらまず手ぇ拭かないと」
布巾で頬をぬぐって、出させた両手を指の一本ずつから丁寧に拭う。その間はひどくどきどきする。ナミさんの指は細くて綺麗だ。ペンだこが合って、しっかりした手だけれど、俺の手ならまるごと包めそうなくらい。ああ役得。
「なんか、サンジ君ってさ」
「ん?」
「時々お母さんみたい」
無邪気に嬉しがられても、俺一体どうすりゃいいんですかナミさん?
お母さんですと。
そりゃあねえだろう、とちょっと朝から凹んでみたりした。
午前10時。
後部甲板に翻る洗濯物に、角が引っかかってにっちにもさっちにも行かなくなってたら、上のほうから笑い声がした。蜜柑畑のナミだった。
「しゃがんで通っても無理ー? 立派な角の唯一の弱点ね」
濡れた布は重いし鬱陶しいし。完全に角に絡まってしまっていて、このまま走り抜けると折角洗った洗濯物が床に落っこってしまう。ので、チョッパーは仕方なく頼むしかない。
「取ってください」
ペコリと頭を下げたら、ひきづられた何だかが頭の上に降ってきた。
「ゾロ! どうせその辺で寝てるんでしょ。チョッパー助けてあげて!」
「俺は使われんのは嫌いだ!」
そうは言っても、基本的に面倒見がいい男なのである。ことに医者には借りも多い。
何層かに重なった洗濯物の向こうから、ぬっと出てきたゾロは、落ちかけのシャツやシーツを引っ掛けなおし、トナカイの角に絡まったなんとやらを外してやろうとして、うっと詰まった。
そのなにやらに視界をふさがれたチョッパーは大人しくしているしかないのだが、周囲に困惑と殺気の気配を感じて怯える。
「ねえチョッパー大丈夫ー?」
階段を下りてきたナミが目にしたのは、彼女のブラジャーを被ってうろたえるトナカイと、その危険ななんとやらをいかにして取り除くべきか、うろたえる男と。
「きゃーあんたたちよりによって!!」
綺麗な放物線が二本。水柱も二本。
やがて波間に浮かんで出たゾロは、恐怖で鼻どころか顔中真っ青なチョッパーを肩車して支えてやりつつ、低い低い声で一言。
「・・・・・・被り心地は?」
涙目のチョッパーはぶんぶんと首を横に振った。
午後1時
ダイニングテーブルで、洗った端から乾いてしまう洗濯物を畳みながら、ビビは彼らの様子を観察していた。
船首の方でルフィとウソップが釣りをしている。釣果はどうやら芳しくないらしく、伸びをしたり、無駄に伸びたり、どつきあってみたり、馬鹿笑いしていたりする。その隣では懲りることを知らないカルーが、餌箱の中身を狙っている・・・・・・ビビの大嫌いな長虫の類が、以前見たとおりならおがくずの中にうじゃうじゃいるのだ・・・・・・背筋がぞっとしてきてビビは大きく震えた。
「ビビちゃん寒い? 暖めてあげようか」
粉をこねていたサンジが、即座に振り返って真っ白になった両手を広げるので、苦笑しつつお断りする。天気が良すぎて暑いくらいだ。
「照れ屋さんな君も好きさv」
向かい側で図面を睨んでいたナミさんが、サンジ君ちょっと、と静かな声を出す。
「ナミさん、妬いちゃうvv?」
途端にハートマークを飛ばすサンジに、ナミは思い切り微笑んで言った。
「軽焼きパンならオレンジピール入れてねv」
「まかせろナミさんv」
「でもビビは干し葡萄入りが好きなんだっけ」
「あっあれ大好き・・・・・・です」
サンジはじーっと期待を込めて見つめる両名の視線を受けて、右見て左見て上見て手を見て、深く頷いた。
「両方入れたらまずいですかね?」
「美味しいと思うわv」
「あっ別にいいんですよそんな」
ハートマークを飛ばすナミと慌てて手を振っちゃうビビと、間に挟まれてでれでれのサンジはぶんぶんと頷いた。
「両方ばっちり、入れましょう」
「どうせならアンゼリカも入れちゃわない?」
「生憎緑色は嫌いなもんで。でもナミさんのリクエストなら構いませんよ。で、ビビちゃんは?」
「胡桃は入れても大丈夫かしら?」
「干し葡萄と胡桃は超王道ですよ。オッケー任せといてくださいv」
嬉々としてサンジは作業に戻る。ナミはふふふと笑ってから、ふと外を眺めて、
「あら、カルーがいないわよ?」
ビビは畳み掛けていた洗濯物を放り出して立ち上がり、窓から大声で呼ばわる。
「カルーは何処!?」
船首のルフィが呑気に手を振った。
「今餌に借りてんぞー」
「・・・・・・クェー・・・・・・・・・」
拳を固めてすっ飛んでいくビビの後ろで、ナミは海図そっちのけで大笑いしていた。
午後3時。
鏡を正面から見た分には全く問題ない。
ところが横から見ると大問題なのである。
プリンセスビンタによって手摺に激突した我が鼻は、がくがくに折れ曲がったまま固まってしまったのだ。
普段ならノリで伸ばすのだが、生憎今日はそのままおやつタイムに突入してしまったため、機を逸してしまった。
形状記憶だから明日辺りには元に戻るだろうが、もしも今日一日に歴史的運命が訪れたならどうしよう?
『キャプテン・ウソップの鼻は階段状に長く・・・・・・』
そんな記述を思い描いてウソップは、ノーッ!! と喚いてぶんぶん首を振る。
そうだ包帯で矯正したら直らないだろうか。ぐるぐるに巻いてみる。
穴まで塞いで窒息しそうになった。
「長っ鼻! いつまでふんばってやがる!!!」
蹴り開かれたドアの向こうから、タオルを抱えたサンジが入って来るのと、包帯をようやく解いたウソップが振り返って抗議しようとしたのは、同時だった。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・悪ィ」
振り返った鏡の正面。
「・・・・・・真横から見てみろ。見事な普通の鼻だ」
ウソップの鼻は真横に向かって伸びていた。
『キャプテン・ウソップの鼻は真横に直角に・・・・・・』
「ラァァァァヴコーッック・・・・・・・・」
「男の真価は顔の美醜じゃねえよ」
「それはてめえが言うことかよ? ああ!!?」
「特にウソップ、お前の場合なんかは」
「畜生俺は勇敢な海の戦士だー!!!」
そのまま甲板まで突っ切って逃げるコック、追いかけてウソップタバスコ星を構え放つ。
タバスコ星、コックの後頭部に命中。見事な金髪と清潔感が命のワイシャツに、べっとりと赤い染み。
「うおなにしやがる長っ鼻ー!!」
何の騒ぎかと厨房から出てきたビビが、勘違って絶叫した。
「きゃーっっ!! サンジさん頭が割れてますーっ!!!」
「大丈夫だぞビビ、頭なんか割れたって直ぐ塞がるもんさ」
送れて出てきたルフィはまぐまぐと何やら頬張っていた。
「こらクソゴムつまみ食ってんじゃねえ!!」
「(むぐむぐむぐ、ん、ごっくん)・・・何のことだかさーっぱりわかんねえなー」
「サンジさん血止めしなくちゃ!! トニー君! トニー君何処!?」
「大丈夫ですよビビちゃん。いつもよりちょっと刺激的な俺ですけど。っておい! すっとぼけてんじゃねえルフィ!」
「どうしたんだビビ? あっウソップその鼻どうなってるんだ!!? 」
鼻は今正に、真っ直ぐに戻りつつあった。じわじわと動きながら。
「形状記憶なんだな! 凄いな!」
さてその頃ナミは相も変わらず後部甲板にいた。
「ビビが段々感化されつつあるわね」
まずいわ、とナミは呟く。ゾロの耳掃除をしながら。
「三馬鹿が四馬鹿・・・・・・五馬鹿になったらどうしようか」
膝枕の剣豪は午後一杯爆睡している。食後で腹が満たされたせいだろうか。それともそういった外的要因に左右されることなく、単に眠りつづけているだけなのだろうか。
ナミは潮風に吹かれながら幸せだと思った。当たり前の日常は賑やかで馬鹿げていて楽しくていい。それに膝の上で呑気に眠るたった一人。
けれど、数分前から、気になって仕方のないことが一つあるのだ。
人生の幸福図を根本的に喜劇化しかねない衝撃的事実が目の前をちらつく。
何って、そりゃあ。
時々耳垢と一緒に取れる、この緑色のはなんだろう?
・・・・・・やはり耳毛なのだろうか。
午後6時。
ちょっぴり刺激的な男・サンジは、今日の夕飯のおかずを魚にしたようだ。
サンジは魚料理の方が好きらしい。夢もオールブルーだ。ルフィにしてみれば、世界中の肉が集まる牧場なんてのは、目先の欲望的には最高なのだけれど。
メインマストにぶらんぶらんとぶら下がりながら、もとい吊るされながら、ルフィは遥か彼方の夕焼けを眺めた。
夕焼けは好きだ。なんでってナミの色だ。
ナミが普通が一番だと言うから、サンジは初め混乱したらしい。
しかも秘密がいいらしいので。それは面白そうだから直ぐ賛成したのに。
だから何時も通りつまみ食いをしただけだというのに。
そりゃあつまみ食いは悪かったと思ってるさ。だけど昼飯が少し軽かったのだ。
おやつなんかじゃ足りないし。仕方ないじゃないか。
「おーいクソゴム反省したかー!」
ふと見下ろしたらサンジが下で怒鳴っていた。
「したー!!」
「よし」
マストの上で絵を描いていたウソップに手を振る。心得たウソップがちょうちょ結びに結んだルフィの手を解いてくれた。長いこと伸びきっていたので弾みがつかず、べちょんと落ちた。
「はいルフィさん冷たいお水」
ビビが甲斐甲斐しく手の結び目あとを撫でてくれるのだが、痺れていた手先に一気に血が流れ込む感じがどうにもたまらなくて、ルフィは甲板中を転げまわった。
「びりびりする。キモチワリィ」
「ゴムでも痺れんだな」
腹が減ったと降りてきたウソップは、スケッチブックを広げてサンジに見せる。サンジの眉毛がつりあがった。
「器用なやつだな」
「改心の出来だぜ」
「難しくて俺には良くわからねえ。が、綺麗な色だ」
男部屋の扉がいきなり開けられて、転がっていたルフィが弾き飛ばされた。
「メシか。メシだな」
そのまま一直線にダイニングへ向かおうとするゾロの後頭部に、ゴムゴムチョップ。
「〜〜〜てめえもんなとこに転がってんじゃねえよ」
「だって腹減ったんだ」
「おい、寝太郎に芸術はわかるまいが、ちょっと見てみろや」
「ほうてめえにはわかんのかラヴコック」
「女性とはこの世で最高の芸術さ」
得意げなウソップが掲げたスケッチブックには、光の氾濫したそのままの空と、何か。
「?」
ためつすがめつして結局分からずに、受ける印象だけが覚えがありすぎて考え込んで、ああ、と頷く。
「見事だろう」
「・・・・・・ああ。こりゃいい」
そろりそろりと、視界の端を移動していく影があるので振り返ったら、ビビの手を引いたルフィがダイニングの扉を開けようとしているところだった。
「もー待てねえ! いっただっきまーす!」
待ちやがれクソゴム! と階段を駆け上がるサンジを見送って、その視線をそのまま上に。
みかん畑を見上げた。金の陽の名残を受けて、ナミがこちらを見下ろして笑っていた。
「夕焼け綺麗よ」
「知ってる」
「おなかすいちゃったわ」
「メシだとよ」
「ねえウソップ。その絵、頂戴?」
「おお、やるとも」
「だって綺麗だもの」
お前もな。
午後10時。
頭から無心に浴びた水を、ぶんと振って払い落とした。
滴る雫でそこらを濡らすと酷く叱られるので、おざなりながらタオルを被る。新しいシャツを羽織るよりも、何も着ず風に吹かれるほうがこんな日は心地よい。
裸足に靴をつっかけて、外に出るとマストの上から話し声。抑えきれずに笑い転げているのはビビだ。一緒にいるのは・・・・・・ルフィ? それともサンジか?
まあその辺はどうでもよいのだが。
ダイニングによってグラスを二つ手に入れた。棚を探したが酒瓶は何処かに隠されてしまっていた。それも問題ない。倉庫には樽がある。樽の中には酒がある。
マストの下では、羽にくちばしを突っ込んでカルガモが眠っていた。こいつの羽根は柔らかくて寝心地がいい。だが最近は昼寝時になると何処へともなく見当たらなくなってしまうのだ。残念なことに。もっとも寝心地がいい柔らかいものは他にも在るからよいのだが。
倉庫の酒樽からグラスに汲んで、ついでに隣の樽から林檎を一つ。腕に抱え込んで、床の扉を二度、三度叩く。
ややしばらくして扉が開いた。
グラスを受け取ろうとナミが手を出すので、両方渡したらこちらの手は空く代わりナミは動きがとれなくなるので、床に腹ばいになる風に耳元に噛み付く。ようなキス。
細い手首を掴まえた、その反対側の手に俺が持っていた林檎に、ナミはいい音を立てて齧りついた。
「眠くてたまんないわ」
「そうか?」
「あんたは午後中寝てたでしょ」
「そうだな」
「足が痺れちゃったわよ」
「振り落しゃよかったろう」
そんな気全然ないくせに、と肩にもたれる夕焼けの髪を撫でて指で梳いて、お互い暑さが馴染む頃になって、小さく小さくゾロは呟いた。
「お前が生まれといてめでたいな」
「ふふ、偉いわちゃんと記憶してたわね」
皮肉げな言葉をナミがなんとも嬉しそうに言うものだから、本当は日付なんてどうでも良くて、こうやって抱え込んでしまえる距離感の無さが、なんとなく気に入って手放したくないだけなんだと。
口で言うよりか態度に示す方がゾロにとっては楽なのだった。
幸せですか?
幸せです。毎日が、とても幸せ。
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