桃色片想い




 段々打ちかかられる回数が増えてきている。捌けないほどじゃない。到底そこまでは至らない、が、強くなっている、と思う。彼の上官が拾った二人の少年。今頃は多分まだ訓練場で倒れていることだろう。
 ジャケットを襟首掴んでぶら下げて、脳裏に先刻の打ち込みを反復させながら渡り廊下を歩く。と、掲示板に目が留まった。因果なことに、意識と裏腹に彼女の名前を角膜が追うのだ。殆ど病気である。
 クロコダイル搬送で戻ってきていたとは聞いていたが、まだ本部にいたとは知らなかった。いつもならすぐさま前線に飛び出していく黒檻部隊だ。無謀ではないが無茶無造作無頓着、がかの凄腕美人大佐のやり方である。それを許させるだけの器用さがある。
 緊張感のない張り紙には「ヒナ嬢ハッピーバースデー」とかなんとかかんとか。もうとっくに過ぎている。そして他人の誕生日まで把握している自分の困った脳。
 どう見ても相応の年の野郎が書いたとしか思えない筆跡に、むっとして張り紙を引き剥がした。ズボンのポケットに突っ込んで、副官ボガードは夜の街へと大股で急ぐ。


 同じ陸にいるとき限定だが、何時もと同じ店に行けば必ず彼女がいるというのは、自惚れるべきなのか、自戒するべきなのか。
 待たれているのかもしれないと舞い上がり、追跡する相手が違うだろうと自嘲する。
 それらが全く表面に出ないことを密かに感謝しながら、カウンターのスツールの、二つとなりに寄りかかると、上機嫌らしいヒナは綺麗に磨いた爪の手で、フルートグラスを軽く掲げてみせた。
「お久しぶり、調子はいかが?」
「悪くない」
 黒ビールとシャンパンをわざと乱暴に合わせたそれが自分の定番で、隣でそれを眉をひそめて眺めているヒナはベリーニ。桃。淡いピンク。おや、爪も常より綺麗な。
「何を見ているの? ヒナ、困惑」
 よく見たら口紅もシャツもピンクだった。
「教練場近くの渡り廊下にこれが貼ってあった」
 折りたたんだ例のチラシをポケットから引っ張り出して見せると、ヒナは盛大な溜息をついた。
「まったく、どこまでああなのかしらあの子たち」
「心当たりがあるのか?」
「うちの新入りの噂すら聞こえてないの?」
 職務熱心な副官殿は、と揶揄する口調に内心で首を横に振る。
 どんな些細な情報たりともこの角膜と鼓膜は逃してはくれないのだ、彼女が黒檻と呼ばれる所以であるところの悪魔の実の能力のように、好むと好まざると自分の情報網は彼女を捕まえようとする。
「実力はあるのだけれど、困った子達よ」
「あなたにかかれば大概の男はそうだろうな」
「……ヒナ、母親になったつもりなどなくてよ」
 ボガードは軽口を叩いたつもりだったのだが、どうやらそれはヒナのお気に召さないらしかった。
「甘えられるのは嫌いじゃないけどね。骨のある男が見せる隙は素敵だわ」
 女ですもの、と爪をなぞった。
 似合っている、と思ったが言えなかった。慣れていないので。
「これが大佐たる私が女たる私を許せる妥協点だわ。でも褒めてくれたっていいじゃないの。ヒナ不満」
「……似合っているんじゃないか?」
「落第。補欠でぎりぎり及第。そうね、あの子達の饒舌とあなた足して3で割ったら……駄目だわ、扱いにくさが増すだけよ。考えるだけでうんざりするわ」
 ヒナは嫌そうに首を横に振った。
「扱いやすい男に興味はなさそうだがな」
「当然。というよりむしろボガード、あなたに言われたくないわ。私が何を期待してここで飲むかといったら、いつでも必ずストックされてる甘い桃以外にも、お目当てなんか勿論在ってよ。あなたの上着の隠しポケットの奥の」
 ゆっくりと伸ばされた手が襟をなぞって懐に滑り込む。強い剣士を前にしたのと同じ類の戦慄感が新鮮だ。確かに彼女は自分の知る中でも決して弱い人ではないが。
 ぷるぷるぷるぷる、と小さな音が鳴った。お互いしばらく間の抜けた顔をしていたに違いない。
「ボガード早く出なさい! 出て!」
 手のひらに載せた子電伝虫を、慌ててヒナが押し付けて返す。
 大いに気が進まなかった。
「……はい」
『何油売っとる』
 しゃがれ気味の声に背筋が伸びた。
「……閣下」
『時間外に閣下などと呼ぶでない』
「……はい」
 子電伝虫が吐き出す矛盾した非難に、向かい側でヒナが声を殺して笑う。
『もしや黒檻殿がおられるのかな?』
 あらばれちゃった、と口元を押さえるヒナに、子電伝虫を押し付けた。望まぬ展開だが何時ものことだ。
「ごきげんようガープ中将」
『お嬢さんもご機嫌麗しい様で何より。また何時もの店にいるのかね? 仏頂面のボガードなんぞを相手に?』
「ええ、何時もながら物凄い仏頂面ですわね」
 原因はあんただガープ中将閣下。
 日頃の威圧的な女将校としての姿からはとても想像が付かない可愛らしさでヒナが笑う。お嬢さんと呼ばれて嫌な気がするわけ無いわ、とヒナはかつて言ったが、もしも言ったのが自分であったら、馬鹿にしてるとか何とか大憤慨することだろう。
『本部にいる間に一度お茶でもどうじゃろ?』
「喜んでご一緒させていただきますわ」
 本当に嬉しそうだ。
『そうだボガードめに一つお伝えいただけないかな』
「お電話かわりましょうか?」
『お嬢さんと話すほうが楽しいんでなあ』
「わかりましたわ」
『明日の朝食のドーナツを買ってきてくれと』
 そんなの時間外の副官にやらせるな。
「確かチョコレートのがお好きでしたわね?」
『覚えててくれたとは嬉しいのう』
 ああ今どうしようもなくこのカウンターをひっくり返したい。
 バカヤローと叫びたい。
『チョコレートのと、シナモンのと。それに胡麻きな粉の豆腐のに凝っててな』
「新製品ですわね。ヒナも興味ありますわ」
『お茶請けにもぴったりでな』
「ヒナ、楽しみv」
 ボガードは最早絶望的な気分でグラスの中身を飲み干した。通話の終わった子電伝虫がその仏頂面に怯えている。支給品だから丁寧に扱わなくては。ポケットに子電伝虫を無理矢理捻じ込むと、軽い溜息をついて席を立った。
「あら、もう帰っちゃうの?」
「……ドーナツ屋が11時半で閉まるからな」
 我ながらなんて理由だ。
「ドーナツがお好きなのよね。可愛らしくて素敵なおじさまだわ」
 この店に来て、ヒナと会う。するとガープから電話がかかる。大概どうでも良さそうな用事で。嫌がらせか、遊ばれてるのか。
「……可愛らしくて素敵?」
「ええ。貴重だわ。だって食えない同輩やら喧しい部下やら、ヒナの周りそんなのばっかり。ヒナ、憂鬱」
 あれほど食えない上司もいないだろうが。
 食えない同輩は約一名心当たりがあるが、自分はどうなのかといえば、多分中将のおまけなのだろう。
 彼女が何を期待してここで飲むかといえば、自分の上着の隠しポケットの奥の、子電伝虫にかかってくるガープからの妨害電話なのだから。
「どうしたのボガード、こんなところで考え込んでるとドーナツ屋が閉まるわ」
 気付くとヒナもグラスの中身を空け、その桃色の爪の手をひらひら見せながらこちらを覗き込んでいた。
「もう帰るのか?」
「胡麻きな粉の豆腐のが気になるんですもの」
「ドーナツ屋に行くと?」
「そうよ、悪い?」
 不満げにこちらを睨むヒナ嬢の手の、綺麗に塗られた桃色は電話では見えない。
「いや、意外に思っただけだ」
「スタイル維持の敵だから滅多には食べないけれど、嫌いじゃないもの」
「……気にする必要なんかないだろう」
 うっかり零した一言に、ヒナはなにかひどく珍しいものを眺めるような顔をしてこちらを見つめた。
「……ヒナ、驚愕」
 なにがそんなに彼女を驚かせたのだか分からない。
 けれども、長いまつげで数回瞬きを繰り返してから、さあ行きましょ、とヒナは何気ない風にボガードの腕を取った。
 傍に立てば予想よりさらに華奢な身体になんだかどきどきしてしまった。


 ポップな内装の深夜のドーナツ屋で、なんだか楽しげな海軍カップルがいちゃついてたぞ、と。
 翌々日にはそういう噂が広まって、噂を耳にしたボガードの無表情が時折痙攣するのを、ガープは至極面白そうに眺めていたらしい。



3月3日
もも 【桃(もも)】
〜 あなたに首ったけ 〜
学名: Prunus persica (L.) Batsch 英名: Peach





20040303〜20050619


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