十七年




 信じることに必死でいたいと思う。




「マキノさん」
 金色に自分の影が落ちていくのを眺めて居ると、後ろから呼ぶ声が聞こえた。
 海沿いのガードレールの上に腰掛けて。
「女同士の話だってしたかったのよ?」
 昔の自分にどこか似ていた、あの少女は帰っていったのか、恋人の待つ自分の街へ。
「男にしか語れない言い訳ってのもあるのさ」
「言い訳、ね」
 シャンクスはマキノの手を取り、彼女の店へ連れ戻る。席を外してもらったのは恥ずかしかったからだ。かつて今より幼かった彼女を酷く迷わせたように、あの時の自分よりもっと放たれたクソガキに迷わされているあの少女の為に、自分のあの時の思いをそのままに語って見せなければならなかったから。
「何処までだって駆けていけるって、何時までだって信じてたかったんだよ」
「そうね」
「ルフィがいなけりゃ戻ってなんてこれなかったな」
「そうね」
「マキノさんがよく見捨てなかったもんだって今じゃ思うよ」
「全くだわ」
「戻ってきたのはマキノさんのためじゃなかったってのに」
「そのまま二人で流離ってたかもしれなから、待ってた甲斐は充分にあると思うのよ」
「恋人よりか近かったからね」
 肩を抱いている手を強く握り返して、マキノは頷いた。
「それ以上の言葉なんて要らないわ」


 17年前。マキノは仕事を辞めて祖母の経営していた海辺の食堂にいた。明日も明後日も何もない日々を、どう生きようか探してた。
 17年前。シャンクスは順調に行き過ぎる仕事に飽いて、異国の海を相手に日々を潰していた。
 17年前。ルフィはただひたすら待っていた。随分老いてしまった老人と二人、故国の言葉を投げ与える青年を慕って、毎日海を眺めて、毎日海の向こうを待ち望んで。


  17年。



***


 ノース寄りでもあまりメジャーとは言えないその浜で、毎日ふと気付くと足元に纏わり付いてくる子供がいた。黒い髪黒い目まっすぐな目。地元の長老の家の子だという。逆さまにつるしてみれば立派な蒙古班があった。
「日本人の子か」
「そうだ」
「なんでこんなとこに?」
「親がいない」

 この子は海の子。人の子。それで充分じゃないか。
 いつの間にか子供の養父になっていた老人は、子供を可愛がって、さっさと事実を突きつけた。隠すようなことじゃないし、何より子供が知っていた。
 子供はまるで喋らなかった。あるとき急に喋り始めた。全部英語だった。本当にこの子は日本人なのか? 誰も分からなかった。調べるくらいなら可愛がって育てよう、そういうことになった。
 留学生が生んだ子か。捨てたのか。攫われたのか。攫ったのか。死んだのか。生きてるのか。本当に日本人か。そもそも日本国籍でない黒髪黒目のアジア人種だというだけで。
 だから老人は子供に教えた。ここは心のふるさと。でもお前は何処から来たのかわからない。何処に帰るか自分で決めなさい。そして何処を選んでも、ここがお前の心のふるさと。


 シャンクスは当時27歳。
 親戚からたらい回されてきた縫製工場を、趣味に融合させてカジュアルメーカーに仕立て上げたのが学生終わってすぐ。使えるつてを全部使って、とうとうこの歳で社長様に収まった。座り心地は確かに良いが、自分の本来の性分には合っているとは言いがたい。で、取引だ仕入れだデザイン交渉だと理由をつけては、はるばる南の島で波乗り遊びに興じていた、あの頃。

 無心に懐く子供に、大人ぶって見せて、数日過ぎたらサヨウナラ。
 日本に帰っても心は海にばかり向いていた。
 日本にも迷子がいて、最初は疑いの目を、次に想いを秘めた目をして彼を見た。
「どうしたいのか自分でもよくわからないの。でも貴方みたいにはなれない」
 俺はそれを拒絶と受け止めた。


 見舞いに色とりどりの花を抱えて。
 子供は青い顔をして俺を見上げる。
 包帯で巻かれた俺の腕。
「なんで」
 涙をぼろぼろと零しながら、子供が問う。
「友達だって言っただろう」
 いつの間にか一人で突っ立ってた、自分を連れに戻る手が差し伸べられるなんて思ってなかった。子供の手には海は遠くて届かない。唸り声を上げて車が近づいてくるのを子供は静かに眺めていた。
 交差点のど真ん中の観光客の事故だ。子供を庇って自分が大怪我。もっとも、自分が無事で小さな遺体を見下ろすよりは遥かにましだと思った。
 俺は車に撥ねられて重傷を負ったが、幸い死にはしなかった。保険金と示談金と取れる限りを分捕って、国際電話の向こうのもう一人の迷子にそういうわけで滞在延長するから、と気楽に告げたら派手に泣かれた。泣かせるつもりなどなかったのに。

 包帯が取れる頃、予期はしていた別れが訪れた。
 俺の腕は元通りには動かなかったけれど、もう呼んでも起きない老人に取りすがって泣く子供の頭を抱え込んでやるくらいの事はできた。
 大変なことだとは朧げにでも分かっていた。でもどうにかできると思った。そうしたかった。助けてしまったのは、迷っていた自分の分身だったから。
「俺はこれでいて社長サンだから、ガキの一人くらい悠々担いでいけるぞ」
「でもここから離れたくない」
「じいさんの墓か?」
「海の近くがいいんだ」
「お前馬鹿だな、世界中の海は全部同じ海なんだぞ」
「本当に?」
「海で生まれたやつが、海から離れて生きていけるわけがない」
 俺が、お前の手が届かない海へ、連れてってやる。
 自分で自分を連れ出すように、俺はルフィの手を引いて生き始めた。
 そして。
 

 ***
 

 十七年。生まれた子供は高校生になってる。あの日5歳だった子供はじき22歳だ。
 二十二歳だった自分は粋がってたガキで、二十二歳だったマキノさんは社会人の希望に溢れて、二十二歳のアイツは、ルフィは、海の向こうで行方を晦まして連絡も寄越さない。きっと迷ってるんだろう。人生そのものを。
 自分は何処から来て何処へ流れる。自分は何者か。自分はこれからどうなる。自分は何を探してる。自分は何を夢見て何を望んで今ここに居るのか。
 ここは何処なのか。何処へ行けばいい何処へ帰ればいい。
 

 俺は海沿いの町から東京に来て地元に帰り家の工場をついだ。シャンクス。名前の発音は感謝の音に似ていた。今なら全てに素直に感謝を伝えられるだろう。そういう場所まで生きてきた。それは無為に逃げた南の島も、待たせ続けて答えも渡せないこの女性にも、共に迷った友にも、あの日交差点で腕一本の自由と引き換えに拾い上げた命にも。
 夢見たものは進む力で、必用なのは帰る場所。何処だか分からぬその場所に行こうとして、迷って戻ってここですと抱きしめられて、ああと漸く気付いた根無し草。風が吹けば飛ばされるのを、囲いで蔽わない代わりに迷子札をつけてくれたひと。なんて聡明で心の広い俺のことを理解しようとしてくれている努力家の、マキノさん。

「言い訳信じて待ってたから、あなたは私のところに帰ってきたんでしょ?」



『悲しくなるのは疑われた方じゃないよ。信じられない何かを支えにするほど恐ろしいことはない。疑う心は弱くて脆い。傷は塞がらない。痛くて悲しいことだ』

 どうして信じられたんだろう。けれど彼女は信じていてくれたし、あの少女もきっと信じているのだろう。楽なことじゃない。楽なはずがない。信じていたから手に入れられたわとなんでもないことのように語り、しっかりと俺の指の端を繋いでいる綺麗な手。手に入れたのは俺のほう。手に入れたのは帰る場所。
 同じ迷いで海に出た、養い子の成長は十七年の重みで、同じ迷いで探しているものは、きっと俺と同じ場所にある。あの少女が、信じることを止めないでいて欲しいと願う。昔の自分にそっくりなあいつの為に。昔の迷っていた自分自身の為に。
どんな形でも、どんな名前でも、進む先に求めているものに気付ければ良い。
 世界は丸いと誰もが知っているように、同じ道を迷い、同じ時を迷う。それなら行き着く先だってきっと同じ。



「マキノさん」
 テーブルの上にここ一年近く置かれたままの書類をなぞる。国籍の選択。象徴的な実質をともなわないたかが手続き上の、自分という存在の証明のひとかけら。
 養子縁組で帰化した場合は、二十二歳までに申請をしなければ日本国籍を選択したと見なされる。それがどれほどの意味をもたらすのかは、実はよく理解できない。ただ、自分よりも多くの意味で、養い子の居場所は不明瞭なのだと思う。

 去年一年間、ルフィは一歩も日本を出て行こうとしなかった。多分あの少女の為に。そして考えすぎかもしれないけれど、きっと自分の場所を選ぶために。
 最後の連絡はNYからだった。電話が一本ほんの数分。誰にも話していない事実。



『俺は元気で、大丈夫』

NYの、貿易センタービルが、見える、いつもの、道端から、かけてる。



 去年一年間、ルフィは日本を出ようとしなかった。何度も見ているくせに、自由の女神像が好きだからと、アメリカにまた行こうとしていたことを俺は知っていたから、実は心底安堵した。人を思いやれぬほど心が狭かったから、この幸運に感謝さえした。9月、房総から帰ってから関東を離れなかったあいつと二人で、海月の浮いた海沿いを、釣りの話をしながら散歩した。それでも夜に眠るとTVのニュースが夢にまで出てきてうなされた。

 飛行機! 飛行機! 飛行機! 飛行機! 飛行機!
 世界は丸いからまっすぐ進めば帰ってこられるさ、って?


 世界は、丸いから。

 きっと何が変わっても、なくなっても、あきらめることも、迷うこともなく、回り続けて。


 

 早く、帰って来い。
「マキノさんは、何時まで、待っててくれる?」
 あの少女が信じることをあきらめないうちに。
 早く、早く、帰って来い。
「まだ、見つけられてないんですか、船長さん?」
 半ば呆れたような声でマキノは笑う。こんな我侭も許されている。心地良いと思う。
「もう見つけたよ。でも、止まろうとは思えなくてな」
「……スポーツ選手って、試合中はかっこ良くみえるひと多いんですけど、普通にしてると普通の人なんですよね。試合中のときめきはなんだったのって思うくらいに」
 好みの薄さに入れてもらったコーヒー。何の変哲も無いマグカップ。実は茶道の嗜みもあるらしいかつてのお嬢様は、すっかりインスタントのいい加減な入れ方をマスターしてくれていた。自惚れではなく確かに自分の為に。
「……そりゃあきつい。年寄りになったらそれなりに隠居したかったんだけどなあ」
「大丈夫ですよ、船長さん。必死な日々にだって頑張って慣れられますけど、本当はささやかな日常こそを愛してますから」
 マキノは自分用のコーヒー茶碗を両手で包むように持って、一息にそういい切った。
 ああ、あきらめの付かない男の言い訳を、そんなにも簡単に受け入れてくれる、女の人はどうしてこんなに必死に強くなれるのか。
「俺は、マキノさんを愛してる」



 そういうふうに、抱きしめた事は無かった。
 言葉が、自分の世界を定義して、そのとおりに全て作りかえる。
「……さっきね、物凄く報われた気がしたのよ」
「今更の告白に?」
「いいえ」
「……どれに?」
「この場所に『戻ってきたのは』って言ったでしょう」


 信じ続けてきたのよ。どうにも困難に思えたときも。十七年、それ以上。
 何が変わっても、なくなっても、あきらめることも、迷うこともなく。


 






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